春
本文約10,400字 ・ 読了時間 約21分
あらすじ(AIが作成しました)
五月の夜、カフェーで酒を飲む小説家と文芸批評家が、ある青年の物語を題材に創作の相談をします。寄宿舎で息の詰まるような集団生活を送る青年・和田弁太郎が、自身の鬱屈した心理や過去の記憶、そして突如として仲間の前で女性に接吻するまでの経緯が語られます。小説家は接吻後の展開をまとめられず、批評家と議論を重ねるうちに、自分たちが些末な創作の整合性に悩み続けているという空虚さと奇妙な倦怠感に包まれていきます。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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五月初旬の夜です。或るカフェーの隅っこで、髪の毛の長い痩せた二人の男が酒をのんでいました。一人は専門の小説家で、一人は専門の文芸批評家です。小説家の方は、これから取掛ろうとする創作に思い悩んでいるし、批評家の方は、面白い批評の材料はないものかと考え悩んでいる、そういった気持から、街路で出逢ったのが別れ難くなり、カフェーにはいってお茶でも一杯飲むつもりなのが、場所柄にもなくつい酒となったような有様です。
で、二人はそこで、豆をかじりながら酒を飲んでいました。そして話は次第に専門の事柄に落ちていきました。女中はつまらなそうに向うへ遠のきました。他に客の少ない半端な時間でした。二人は落付いてゆっくり話すことが出来ました。咲き後れた葉桜の大きな一枝が、横手の卓子にぽつねんとしていました。
「早速書かなくちゃならないものが一つあるんだけれど、どうもうまくまとまらなくて困ってる。」と小説家は云い出しました。
「ほう。」と批評家は眼を光らしました。
そして専門は専門だけに、小説家がその考えてる小説の話をし、批評家がそれを聞いてやることとなりました。
ところで、その小説というのは、小説家が或る青年からじかに聞いた話でした。そして小説家の頭の中で、三つの要点に別たれていました。――一、彼は蒼ざめていた。二、彼は窓際に坐っていた。三、彼は彼女に接吻した。――三から先がまだあるのですが、そこが小説家にはどうもまとまりかねたのです。
「では始めから順々に話してみ給いよ。」と批評家は云いました。
「うむ聞いてくれよ。」
そこで小説家は、「彼は蒼ざめていた」を話し初めました。
和田弁太郎は次第に蒼ざめていった。顔色ばかりではなく全体が蒼ざめていった。昼間もそうであるが、殊に夜はひどかった。
板と硝子とで密閉されてる室の中に、六人の青年が眠るのである――規定では夜十時から午前六時まで。