螢
本文約10,800字 ・ 読了時間 約22分
あらすじ(AIが作成しました)
十四歳で母を亡くし、親戚に引き取られた登勢は、不運を諦める習慣を身につけて成長する。伏見の船宿・寺田屋へ嫁ぐが、潔癖症の夫・伊助や寝たきりの姑、家庭の複雑な事情に直面する。登勢は持ち前の明るさと忍耐で苦境を切り抜け、拾い子のお光や実子の千代を育てながら家業を支える。坂本龍馬との交流を経て、激動の時代の中でなおも力強く生き抜こうとする女主人として、淀川の要衝を守り続ける姿を描く。
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登勢は一人娘である。弟や妹のないのが寂しく、生んでくださいとせがんでも、そのたび母の耳を赧くさせながら、何年かたち十四歳に母は五十一で思いがけず姙った。母はまた赧くなり、そして女の子を生んだがその代り母はとられた。すぐ乳母を雇い入れたところ、おりから乳母はかぜけがあり、それがうつったのか赤児は生れて十日目に死んだ。父親は傷心のあまりそれから半年たたぬうちになくなった。
泣けもせずキョトンとしているのを引き取ってくれた彦根の伯父が、お前のように耳の肉のうすい女は総じて不運になりやすいものだといったその言葉を、登勢は素直にうなずいて、この時からもう自分のゆくすえというものをいつどんな場合にもあらかじめ諦めておく習わしがついた。が、そのために登勢はかえって屈託がなくなったようで、生れつきの眇眼もいつかなおってみると、思いつめたように見えていた表情もしぜん消えてえくぼの深さが目だち、やがて十八の歳に伏見へ嫁いだ時の登勢は、鼻の上の白粉がいつもはげているのが可愛い、汗かきのピチピチ弾んだ娘だった。
ところが、嫁ぎ先の寺田屋へ着いてみると姑のお定はなにか思ってかきゅうに頭痛を触れて、祝言の席へも顔を見せない、お定は寺田屋の後妻で新郎の伊助には継母だ。けれども、よしんば生さぬ仲にせよ、男親がすでに故人である以上、誰よりもまずこの席に列っていなければならぬこのひとだ。それを頭痛だとはなにごとかと、当然花嫁の側からきびしい、けれども存外ひそびそした苦情が持ちだされたのを、仲人が寺田屋の親戚のうちからにわかに親代りを仕立ててなだめる……そんな空気をひとごとのように眺めていると、ふとあえかな螢火が部屋をよぎった。祝言の煌々たる灯りに恥じらうごとくその青い火はすぐ消えてしまったが、登勢は気づいて、あ、螢がと白い手を伸ばした。