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TORENDIA

大阪の可能性

本文約7,500字 ・ 読了時間 約15分

あらすじ(AIが作成しました)

大阪弁と京都弁の響きや表現の違いを軸に、両者の魅力や言語としての性質を比較考案する。また、既存の文学作品における方言の描写を分析し、紋切型の表現に頼ることへの疑問を呈する。日常の何気ない会話の中に潜む感覚や心理の躍動こそが言葉の真髄であると説き、定型化された大阪像を打ち破る先にこそ、この土地が持つ新たな可能性が存在することを論じる。

織田作之助

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🎧 大阪の可能性 / 朗読音声: VOICEVOX:もち子さん

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大阪は「だす」であり、京都は「どす」である。大阪から京都へ行く途中、山崎あたりへ来ると、急に気温が下って、ああ京都へはいったんだなと感ずるという意味の谷崎潤一郎氏の文章を、どこかで読んだことがあるが、大阪の「DAS」が京都の「DOS」と擦れ合っているのも山崎あたりであり、大阪の「DAS」という音は、山崎に近づくにつれて、次第に「A」の強さが薄れて行き、山崎あたりでは「A」と「O」との重なり合った音になって、やがて京都へ近づくにつれて、「O」の音が強くなり、「DOS」となるのである。山崎あたりに住んでいる人たちの言葉をきいていると、「そうだす」と言っているのか、「そうどす」と言っているのか、はっきり区別がつかない。

字で書けば、「だす」よりも「どす」の方が、音がどぎついように思われる。「どす黒い」とか「長どす道中」とか「どすんと尻餅ついた」とか、どぎつくて物騒で殺風景な聯想を伴うけれども、しかし、耳に聴けば、「だす」よりも「どす」の方が優美であることは、京都へ行った人なら、誰でも気づくに違いない。いや、京都の言葉が大阪の言葉より柔かく上品で、美しいということは、もう日本国中津津浦浦まで知れわたっている事実だ。同時に大阪の言葉がどぎつく、ねちこく、柄が悪く、下品だということも、周知の事実である。

たしかに京都の言葉は美しい。京都は冬は底冷えし、夏は堪えられぬくらい暑くおまけに人間が薄情で、けちで、歯がゆいくらい引っ込み思案で、陰険で、頑固で結局景色と言葉の美しさだけと言った人があるくらい京都の、ことに女の言葉は音楽的でうっとりさせられてしまう。しかし、私は京都の言葉を美しいとは思ったが、魅力があると思ったことは一度もなかった。私にはやはり京都よりも大阪弁の方が魅力があるのだ。優美で柔い京都弁よりも、下品でどぎつい大阪弁の方が、私には魅力があるのだ。なぜだろう。

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