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TORENDIA

私の葬式

本文約1,700字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

葬式を嫌悪する著者は、自身の死後に告別式や通夜を行わないよう周囲に強くいましめる。死後の名声や虚礼を排し、生きている間の全力投球こそが重要であると説く。骨を邪魔にならない場所に捨て、死後には形式的な法要ではなく、知友たちが盛大に酒を酌み交わすドンチャン騒ぎをすることを望む心情を綴る。死後の世界を否定し、生に没入する姿勢を貫く著者の、型破りな死生観と死後の希望を率直に描き出している。

坂口安吾

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🎧 私の葬式 / 朗読音声: VOICEVOX:青山龍星

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私は葬式というものがキライで、出席しないことにしている。礼儀というものは、そんなところへ出席するところにあるとは思っていないから、私は何とも思っていないが、誰々の告別式に誰々が来なかったなどゝ、日本はうるさいところである。

大倉喜八郎というお金持はオレが死んだら赤石山のお花畑へ骨をまいてくれと遺言したそうだが、私は別にそう凝った手数をかける必要はないから、私の骨なんかは海の底でも、森の片隅でも、どこか邪魔にならないところへ、なくして貰いたいと思っている。葬儀などゝは、もってのほかで、身辺の二三人には、誰かに後始末してもらわなければならないけれども、死んだ人間などゝいうものは、一番つゝましやかに、人目をさけて始末して欲しい。むなしくなった私のむくろを囲んで、事務的な処理をするほかに、よけいなことをされるのは、こうして考えても羞しい。

死んだ顔に一々告別されたり、線香をたて、ローソクをもやし、香などゝいうものをつまんで合掌メイモクされるなどゝ、考えてもあさましくて、僕は身辺の人に、告別式というものや、通夜というものはコンリンザイやらぬこと、かたく私の死後をいましめてあるのである。

「コンドル」という、これはつまらない映画であったが、然し、そのなかで、墜落事故で瀕死の飛行士が、これから死ぬから、みんな別室へ行ってくれ、死ぬところを見られたくないから、という場面があって、身につまされたことがあった。

もっとも、人は病気になり高熱になやむときには、幻覚と孤独感に苦しめられ、非常に人がなつかしくなるもので、病床の身辺に誰かゞいて起きていてくれないと夜など寂寥に息絶ゆる苦悶を覚えるものであるから、凡愚の私が死床で孤独でありうる勇気があるのかはかりがたいけれども、身辺の人のほかに、死ぬところなど、見ていてもらってはやりきれない。

人間は生きているうちが全てゞある。社会人としての共同生活でも、生きている人のためには、色々とはかりたいが、死んでしまえば、もう無、これはもう、生きた生活とはかゝわりがない。

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