私は誰?
本文約6,500字 ・ 読了時間 約14分
あらすじ(AIが作成しました)
座談会に引っ張り出されることに困惑する著者が、文学の本質は語ることではなく書くことにあると論じる。自身が文壇で過ごした酒席でのやり取りや過去の作家たちとの交流を振り返り、文学が俗悪な仕事であるという側面にも触れる。深刻ぶることを否定し、過去の作品を書き捨てては「これから」の執筆に命を賭ける自身の生き様を綴り、最後には自己の正体という問いに向き合いながら、書くことへの執着と不変の姿勢を描く。
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私はこゝ一ヶ月間に五回も座談会にひっぱりだされて困った。考えながら書いている小説家が喋ったところで、ろくなことは喋る筈がない。アイツは好きだ、とか、嫌いだとか、馬鹿げたことだ。
文学者は、書いたものが、すべてゞはないか。
私は座談会には出たくないが、石川淳が一足先に座談会には出席しないというカンバンをあげたので、同じカンバンをあげるのも芸がないから、仕方なしに出席するのだけれども、ろくなことはない。
林芙美子との対談では、林さんが遅れてきたので、来るまでにウイスキーを一本あけて御酩酊であり、太宰治、織田作之助、平野謙、私、つゞいて同じく太宰、織田、私の三人、このどちらも織田が二時間おくれ(新聞の連載に追われていた由)座談会の始まらぬうち太宰と私はへゞれけ、私はどっちのも最初の一言を記憶しているだけである。速記の原稿を読んでみると酔っ払うと却って嘘をついているもので、おかしかった。
ずいぶん無責任な放言、大言壮語で、あさましいが、読者は喜ぶに相違なく、私も読者のオモチャになるのは元々好むところで、私は大馬鹿野郎であることを嘆かない。
けれども私は座談会は好きではない。その理由は、文学は語るものではないからだ。文学は書くものだ。座談会のみならず、座談すること、友達と喋り合うこと、それすら、私は好まない。