通俗作家 荷風
本文約2,400字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
永井荷風の文学の本質を厳しく批判し、その評価を再考する論考。作中人物が人間関係の葛藤を深めず、諦観や風景への逃避で完結する点を指摘し、真摯に「如何に生くべきか」を問い直す作家精神の欠如を論じる。また、懐古趣味に基づく独善的な姿勢を「通俗」と断じ、歴史的考察を欠いた幼稚な思考が文学として過大評価されていると説く。人間性の根源を探究せず、趣味と情景描写に終始する荷風の作風を鋭く分析する内容である。
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「問はず語り」は話が好都合にできすぎてゐる。主人公の老画家が松子(女中)と関係を結ぶと気附かれぬうちに妻君の辰子が急病で死んで、それも深い感謝をさゝげて死んでしまふ。
荷風においては女中との関係が辰子に知られることによつて始まる人間関係や人間性への追求が問題にならないのである。淪落のどん底から拾ひあげて一生愛していたゞいたと死に当つていひ足りぬ感謝をのこした辰子が、然し、もし松子との関係を知つてゐたならどうであるか、といふことは荷風の問題とはならないのである。
荷風のあらゆる作品において、この根本的な欠陥を見出すことができる。「つゆのあとさき」においては、淫蕩な文士清岡進の妻君の鶴子は良人の性癖にあいそを搗かして職を得て国外へ去るのであるが、要するに荷風の作中人物は良人とか妻君の不貞に気附けば諦めて去るとか死ぬとか、そこから何らの関係の発展、淪落の身を以ての探究といふものが行はれてこない。
「問はず語り」においても後篇において老画家は妻君の連れ子の雪江と関係を結ぶが、その淫蕩に諦める如くたゞ田舎へ去り、雪江の情夫の音楽家また呆れて逃避して老画家と田舎で落合ふなどと馬鹿げたことばかり、人倫の発展を身を以て究めやうとする根本的な作家精神が欠如してゐる。だから松子との関係が辰子に知られたところで、荷風の場合は実際は大したことにはならないので、諦めて去るか、死ぬか、それだけのこと、分りきつてはゐる。
私が荷風を根柢的に通俗と断じ文学者に非ずと言をなしたのはこの意味であつて、筆を執る彼の態度の根本に「如何に生くべきか」が欠けてをり、媚態を画くに当つて人の子の宿命に身を以て嘆くことも身を以て溺れることも身を以てより良く生きんとすることもない。単なる戯作の筆と通俗な諦観のみではないか。