TRENDIA CLASSIC

肉体自体が思考する

坂口安吾

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私はサルトルについてはよく知らない。実存は無動機、不合理、醜怪なものだといふ。人間はかゝる一つの実存として漂ひ流れ、不安恐怖の深淵にあるといふ。

「我々は機械的人間でもなければ、悪魔に憑かれたものでもない。もつと悪いことには、我々は自由なのである。」実際、自由といふ奴は重苦しい負担だ、行為の自由といふ奴を正視すれば、人間はその汚さにあいそのつきるのは当然だ。こゝまでは万人の思想だけれども、サルトルは救ひを「無」にもとめる。これはサルトルの賭だ。かういふ思想は思想自体が賭博なので、彼自身の一生をはる。サルトルの魅力は思想自体の賭博性にもあるのだと私は思ふ。

サルトルは小説が巧い。この小説を彼の哲学の解説と見るのは当らない。解説的な低さはない。彼の思想は肉体化され、小説自体、理論と離れて実在してゐるものだ。

「水いらず」のリュリュの亭主は不能者だ。リュリュは喧嘩別れして他の男とホテルに泊るが、男が技巧が達者でリュリュはボッとなつてしまふけれども、達者の男はいや、ボッとなるのも嫌ひ、リュリュは不能者の亭主が好きなのである。そして一日ホテルへ泊つただけで、亭主のところへ帰つてしまふ。

この小説には倫理などは一句も説かれてゐない。たゞ肉体が考へ、肉体が語つてゐるのである。リュリュの肉体が不能者の肉体を変な風に愛してゐる。その肉体自体の言葉が語られてゐる。

我々の倫理の歴史は、精神が肉体に就て考へてきたのだが、肉体自体もまた考へ、語りうること、さういふ立場がなければならぬことを、人々は忘れてゐた。知らなかつた。考へてみることもなかつたのだ。

サルトルの「水いらず」が徹頭徹尾、たゞ肉体自体の思考のみを語らうとしてゐることは、一見、理知がないやうだが、実は理知以上に知的な、革命的な意味がある。

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