本文へ移動
TORENDIA

閑山

本文約6,800字 ・ 読了時間 約14分

あらすじ(AIが作成しました)

越後魚沼の閑山寺に住む六袋和尚のもとに、ある夜、写経中の和尚を訪ねて一匹の狸が現れる。和尚に手懐けられた狸は団九郎と名乗り、小坊主に姿を変えて修行に励む。和尚の入寂後、俗臭漂う後任の住持を追放して自ら住持となるが、村人の悪戯により放屁を抑えられなくなる。やがて人里を離れた団九郎は、死後は獣骨と掌に文字が残る存在として語り継がれ、その塚は花塚と呼ばれて春ごとに嵐を呼ぶと伝えられる。

坂口安吾

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 9

昔、越後之国魚沼の僻地に、閑山寺の六袋和尚といつて近隣に徳望高い老僧があつた。

初冬の深更のこと、雪明りを愛づるまま写経に時を忘れてゐると、窓外から毛の生えた手を差しのべて顔をなでるものがあつた。和尚は朱筆に持ちかへて、その掌に花の字を書きつけ、あとは余念もなく再び写経に没頭した。

明方ちかく、窓外から、頻りに泣き叫ぶ声が起つた。やがて先ほどの手を再び差しのべる者があり、声が言ふには「和尚さま。誤つて有徳の沙門を嬲り、お書きなさいました文字の重さに、帰る道が歩けませぬ。不愍と思ひ、文字を落して下さりませ」見れば一匹の狸であつた。硯の水を筆にしめして、掌の文字を洗つてやると、雪上の陰間を縫ひ、闇の奥へ消え去つた。

翌晩、坊舎の窓を叩き、訪ふ声がした。雨戸を開けると、昨夜の狸が手に栂の小枝をたづさへ、それを室内へ投げ入れて、逃げ去つた。

その後、夜毎に、季節の木草をたづさへて、窓を訪れる習ひとなつた。追々昵懇を重ねて心置きなく物を言ふ間柄となるうちに、独居の和尚の不便を案じて、なにくれと小用に立働くやうになり、いつとなくその高風に感じ入つて自ら小坊主に姿を変へ、側近に仕へることとなつた。

この狸は通称を団九郎と云ひ、眷族では名の知れた一匹であつたさうな。ほどなく経文を暗んじて諷経に唱和し、また作法を覚えて朝夜の坐禅に加はり、敢て三十棒を怖れなかつた。

六袋和尚は和歌俳諧をよくし、又、折にふれて仏像、菩薩像、羅漢像等を刻んだ。その羅漢像、居士像等には狗狸に類似の面相もあつたといふが、恐らく偶然の所産であつて、団九郎に関係はなかつたのだらう。

いつとなく、団九郎も彫像の三昧を知つた。木材をさがしもとめ、和尚の熟睡をまつて庫裏の一隅に胡座し、鑿を揮ひはじめてのちには、雑念を離れ、屡々夜の白むのも忘れてゐたといふことである。

六袋和尚は六日先んじて己れの死期を予知した。諸般のことを調へ、辞世の句もなく、特別の言葉もなく、恰も前栽へ逍遥に立つ人のやうに入寂した。

坂口安吾の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本