安吾巷談
本文約13,300字 ・ 読了時間 約27分
あらすじ(AIが作成しました)
スポーツの本質を、タイムを競う独泳ではなく、相手との競り合いの中で発揮される力と定義する。練習で合理化した技術の先にある、試合での勝負強さこそが真の力であり、精神的な葛藤や肉体の限界への恐怖を抱えながら競うスポーツマンの心事を分析する。さらに、過度な記録更新を煽る新記録詐欺のようなメディアの姿勢を批判し、水泳競技を通じた人間の活力や、ダイビング競技が示す大衆的なエンターテインメントとしての可能性を綴る。
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スポーツというものは自らたのしむ境地で、それ自体に好戦的な要素はないものだ。国際競技とか、対校試合とかいうのも、世界の現状が国家単位であったり、チームが学校に属しているからの便宜的な区分で、スポーツは本来、個人的なもの(チームをも個とみて)である。現状に於てもスポーツの最高エベントは国際試合に限るわけでなく、ウインブルトンの庭球、又はプロ・ボクシングの世界選手権試合に於けるが如く、人種、国家の如何をとわず、最高エベントが個人的に争われている例も少くはない。年々アメリカで行われていた千五百米のインドアレース(陸上)なども、オリムピックのレース以上に豪華な大レースを展開するのが例で、こういうレースの在り方は選手がプロ化する危険はあるが、スポーツ本来としては、このように個人的に争わるべき性質のものだ。
スポーツも勝負であるから、勝敗を争うのは当然であるが、それと同時に、練習の結果をためしている賭の要素が大きい。練習をつみ、その技術に深入りするほど、賭に打込む情熱も大きなものになる。偶然にまかせるルーレットの類とちがって、練習というものは合理的なものだ。いや、力というものを技術によって合理化し、ほぼ、あますところなく合理化してしまうのが、訓練、又は、練習というものなのである。もう一つ、その上に、試合に際して、相手とせりあって発する場合の力というものがある。つまり、勝負強いとか、勝負師の力があるとか云われているものが、これだ。そして、これが、賭というものなのである。