TRENDIA CLASSIC

便乗型の暴力

坂口安吾

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競輪というと八百長騒ぎが景物のようだが、終戦後急速に流行して、組織が完備していないからいろいろのトラブルが起るのは仕方のないことで現にそうだからといって、競輪の性格がそういうものだときまってるワケでもなかろう。組織が完備すれば、八百長も減少して、競馬なみにはなるだろう。

トバクに八百長のつきまとうのは、泥棒や浜のマサゴと同じものかも知れないが、観衆がこれを看破して抗議するのは当然のこと、イカサマが明瞭と知れても素人衆は泣寝入りときまった昔の賭場にくらべれば、民主国のホマレここにありと言うべきかも知れん。

しかし、競輪には八百長が多いというところに便乗して、八百長くさいと独断するや、モッブ化して騒擾を起し、売上金を強奪するに至っては、これは逆に素人衆の賭場荒しである。競輪騒動が常に賭場荒しとは限らないが、常にイカサマを看破しているとも限らない。見込みの外れた口惜しさもあり、長々の損失の腹イセもあって、公平な判断はゆがめられているからである。おまけに、あわよくば八百長クサイところに便乗して一騒ぎたのしめる、というような弥次馬精神も加っているらしい。

こういう便乗型の暴力は理論以前の原始世界で、これに対処し解決を与えるものは理論である。今のはこれであったと公正に判断して、冷静を失した観衆の判断を説服することができるだけの安定した判定の基礎が組織化されていなければならないのである。

ところが競輪の主催者側はそういう組織の完備によって観衆を納得させようとせずに、警官を林立させて、対処しようとする。まったく貸元対賭場荒しの暴力対抗そのままで、近代精神は見られないのである。

賭場は人生の片隅に正常な人生と絶縁されており、好きな奴が勝手に破滅するだけのこと、原始さながらの暴力対抗が行われても吾関せず、ですむかも知れない。しかし、便乗型暴力や暴力対抗というものは、競輪場だけのことではなく、日本全体の風潮でもあるようだ。左右両翼の対立が、理論とは名ばかりで、根は暴力的な対立にすぎない。

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