明治開化 安吾捕物
本文約25,900字 ・ 読了時間 約52分
あらすじ(AIが作成しました)
亡き母が熱心に信仰していた屋敷内のオイナリ様を、由利子は朝夕参拝する。しかし、父や兄はそれを軽視し、家庭内では冷ややかな空気が漂っていた。そんな折、由利子はオイナリ様の内部で父の名が記された位牌のような札を発見する。狼イナリの伝承や家族の不可解な行動を背景に、神の使いやタタリを巡る疑念が深まる。この屋敷で起きた出来事と、古文書をめぐる過去の火事という因縁の糸が絡み合い、隠された狡智と殺人の真相を物語が描き出す。
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庭の片隅にオイナリ様があった。母が信心していたのである。母が生きていたころは、風雨に拘らず朝夕必ず拝んでいた。外出して夜更けに帰宅することがあっても、家人への挨拶もそこそこに、オイナリ様を拝んでくるのが例であった。朝夕の参拝を果さぬうちは、昼と夜の安らぎが得られぬように見えるほど切実な日参だった。しかし、母以外の者は一人も拝みに行く者がなかった。
母が病床についてから死に至るまでの一月ほどは、由利子が朝夕代参を命じられた。
死期をさとると由利子に遺言したが、それは正しく生きよという女大学の教訓と同じようなものであった。ところが終りに、
「あなたがお嫁に行く日まで、オイナリ様の朝夕の日参は必ずつづけて下さい。私の今生の願いです」
衰えきった肉体に、怖ろしいほど劇しい祈りがみなぎった。もしも日参を怠れば、幽霊になって出てきますぞ、とつめよるような凄味がこもっていたのである。
また、ある日彼女が病室へ近づいた時、
「タタリが怖しいとは思いませんか。私の死後は、どうぞあなたも拝んで下さい。一日に一度ずつで結構です」
母のヒステリックな声がきこえた。由利子が病室へはいってみると、母が話しかけていたのは父であった。父は何の感動もない顔をして母の枕元に坐っていた。そして、母の死後、父がオイナリ様を拝んだことはついぞなかった。由利子も母の思い出が遠のくにしたがって、日参を忘れがちになっていた。
このオイナリ様は狼イナリと云うのだそうだ。こう教えてくれたのは番頭の川根八十次であった。しかし、これを由利子に教えたために、川根は母にひどく怒られた。狼イナリという本名はこの家のタブーであった。
「狼イナリって、本家はどこにあるの? 埼玉?」
由利子は兄にきいてみた。
「大方、そうだろう」