桂馬の幻想
本文約13,700字 ・ 読了時間 約28分
あらすじ(AIが作成しました)
公式対局中に突然の散歩へ出かけた若き棋士木戸は、立ち寄った山中の茶店で強烈な印象を放つ娘と出会う。その後、棋界から姿を消した彼を観戦記者の野村が探し当てると、そこには娘と共同生活を送る木戸の姿があった。将棋の盤面に見出した厳しさを現実の生活へと投影し、独自の真実を追い求める青年の変容と、その不可解な世界へ足を踏み入れた記者の困惑を描く。
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木戸六段が中座したのは午後三時十一分であった。公式の対局だから記録係がタイムを記入している。津雲八段の指したあと、自分の手番になった瞬間に木戸は黙ってスッと立って部屋をでたのである。
対局者の心理は案外共通しているらしく、パチリと自分でコマをおいて、失礼、と便所へ立つのはよく見かける風景であるが、相手がコマをおいた瞬間に黙ってプイと立って出て行くというのはあまり見かけないようだ。コマをおいた相手は小バカにされたような気がしないでもない。事実、津雲はいくらか気をわるくしたのであった。ところが木戸は立ったまま一時間すぎても戻らなかった。戻らないわけだ。木戸は用便をすましたあと、ふと庭ゲタをつッかけて宿をでてしまったのである。新聞社の係員も観戦の人々もそれに気づいたものがなかった。やがて旅館ではちょッとした騒ぎになったが、木戸は別段策したわけでもなく、ふとその気になって散歩にでただけのことであった。
その日は対局の二日目で、まさに終盤にさしかかって激戦の火蓋がきられたところであった。まだ形勢はどちらのものとも判じがたいが、まさに息づまろうという瞬間だから、木戸はちょッと息をぬきたくなったのである。すこしだけ歩いてみたい気持であったが、宿をでて坂を降りると山陰をぬう静かな道がある。そこを歩いているうちに渓流の岸へでたのである。と、道の下の岩の上で魚釣りをしている野村の姿をみとめた。野村は文士でこの対局の観戦記者であった。対局をよそに魚釣りの観戦記者もないものだから、
「なんだ。野村さんじゃありませんか。ノンキなものだなア」
と道の上から声をかけて降りて行くと、野村は苦笑して、
「しまッた! 対局はすんだのかい」
「いいえ」
「じゃア、どうしたわけだ」
「ちょッと息ぬきです」