唯心的、凡神的傾向に就て(承前)
本文約1,700字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
女学雑誌社が代表する一派の唯心的・凡神的傾向について、個人の品位と事業の価値という二つの観点から論じる。自然への回帰を説く論理が個人の主体性を喪失させていると批判し、日常の事業を軽視して抽象的な理想や超絶的な境地に逃避する姿勢に対し、現実社会における修徳のあり方を説く。明治時代の流行思想が抱える人間観の矛盾を突き、社会的な実践と個人の特性を重視する立場から、当時の一派の論調を批判的に考察する。
💰 この本を応援する(投げ銭)
女学雑誌社を代表者として、現出せし一派の流行思想(吾人は之れを唯心的、凡神的の傾向と云ふ、直ちに之を唯心論、凡神論なりとは曰はず)は左の現象を示したり。
(一)個人の品位を認識せざること。人は個人として此世に生れたり、個人として其特性を有し、其天職を有し、其権利を有す。若し国家を以て個人の特性、天職、権利を殺さんとせば人は必らず其不可を尤めん。然れども人をして己を捨てゝ自然の流行に一任せしめんとするに至つては之を不可とせざる乎。天知子の利休を論ずるに曰ふ、
大象いかで兎径に遊ばん、老荘は到底孔孟の伴侶にあらず。人世の活文章を誠一片にて組立てんとするの小智を笑ひ、道徳律義の繩墨のみを以て活人を料理せんとするの狭量を愍れみ、為さんとするの善は多く偽善たるを免かれず。去らんと苦心するの悪は多く縮局せる狐疑善を脱せず、無為恬淡として自然に帰るを道とす、
と請ひ問ふ、所謂自然に帰るとは何ぞや、人既に世に生れたり、自然と離れたり、自然の上を超へて立てり。如何にして自然に返るべき人の智識果して小智なるや否を知らず、人の善果して狐疑善たるや否を知らず、然れども個人は個人の信ずる所を為し、個人の行くべき所を行くべきに非ずや。宇宙の大経綸は吾人の小智小善が相集りて成れる者に非ずや。若し自然に還ると云ふことを以て孔子が所謂身を殺して仁を為すもの也、パウロが所謂もはや吾活くるに非ず、基督吾れに在りて活くる者也と云はゞ可也。
形骸に拘々せず、小智に区々せず、清濁のまに/\呑み尽し、始めて如来禅を覚了すれば万行体中に円かなり。 (天知子)
と説くに至つては個人全く死せる也。個人の品位を認識せざる也。