寺田先生と僕
本文約2,700字 ・ 読了時間 約6分
あらすじ(AIが作成しました)
関東大震災の被災者である筆者が、寺田寅彦との交流や、震災時の旋風に関する見聞記を寄稿した際の体験を綴る。著者から提供した資料が寺田の学術調査報文に収録された過程や、その後の著者自身の複雑な心境を回想する。さらに、物理学に対する寺田の学問的態度を「悟りきった神のような」と評し、その非凡な学者的姿勢への深い敬慕と、直接会って語り合う機会を逸したことへの心残りを記す随筆である。
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題名ほどの深い關係もないのであるが、科學ペンからの求めで、已むを得ず[#「已むを得ず」は底本では「己むを得ず」]ペンを執る。
僕が寺田先生を始めて知つたのは、多くの人がさうであるやうに、第一には「吾輩ハ猫デアル」の水島寒月に於て、また「三四郎」の野々宮理學士に於てである。これは書くまでもない至つて平凡なことである。只、その間、首くくりの力學には、始め滑稽を感じ、後學校で本物の力學を勉強するやうになつて畏敬と化した。首くくりはたしかに力學でもあつたからである。今も先生を心から敬慕して已まぬ[#「已まぬ」は底本では「己まぬ」]わけは、先生が首くくりにも力學を考へられた非凡なその學者的態度である。非凡とだけでは物足りない。悟りきつた、神のやうな學者的態度とでもいはふか。
寺田先生から、手紙を一度頂いた事があつた。それは大正十二年の關東大震災の後に、東京朝日新聞紙上で、「私の探してゐるもの」といふ欄に先生が「羅災の人で、もしそのときの火災の進路について場所、風向、時刻について知らせて呉れると、たいへん學術上參考になる。また颱風に遭つた人は、それについても書いて欲しい。」と書かれた。僕は當時、淺草の今戸に居て、九月一日の午後五時ごろに自宅全燒の憂目に遭ひ、しかもその一時間ほど前には、もう生命もこれでお仕舞ひだわいと悲壯な覺悟をしなければならなかつたほどの大旋風にも襲はれたので、謹んで水島寒月先生に見聞記を奉つた。そのとき、當時着のみ着のまゝで燒き出された身の上であつたから、懷中はなはだ寒かつたが、この報告はどうしても東京市の地圖に矢印などを書きこまなければ要を盡さないと思つたので、無理に東京の地圖を遠方まで買ひにいつた記憶がある。
さうして僕は、自分の見聞記を書いて、先生宛お送りしたわけであるが、そのとき折かへし頂いた先生の禮状が、前にいつた唯一の手紙なのである。
惜しいことに、その手紙はその後轉々と引越をしたので、いつか失せてしまひ、今は甚だ殘念に思つてゐるが、なんでもレター・ペーパー二枚に丁重に書かれたもので、今日思ふと實に貴重な寶物であつたのに、惜しいことである。