現在の映画はまるで植物のようだ。それは歩かない。こちらが出かけて行かねばならぬ。したがつて我々病人にはまつたく無関係のものだ。
何年かまえ松竹座を除いてはまだ京都中の映画館にも映画会社にもトーキーの再生装置がなかつたとき、本願寺の大谷さんのおやしきの一隅にはちやんとトーキーの映写室がありウェスタンの再生機がすわつていた。
本願寺は寺であるが、いわゆる寺ではない。試みにその事務所をのぞいてみよ。規模からいつて大都会の市役所くらいはある。なぜこんなことを知つているかというと、私は映写室を探して迷宮のような本願寺中をさまよい歩いたのである。
こんな所にトーキーの映写室くらいあつても我々の家に犬小舎が置いてあるほどの感じしかない。しかし本願寺さんほどのクラスは日本の中に何パーセントもありはしないからトーキーというものは家庭を単位とする場合その普及率はゼロにちかい。
しかし映画は元来館を単位として成長を遂げてきたものであるから、何もわざわざ家庭の中にまで侵入して行かなくても、毎日館を掃除して待つてさえいれば老若男女がどこからともなく賽銭を持つて集まつてくる仕組みになつている。
ところが館を単位としての映画企業があまりにも高度の発達を遂げてしまつた現在ではもはや館以外で映画を見ることはまつたく不可能(といつてよかろう)となつてしまつた。
かくて我々病人は朝は新聞に目を通し、昼は新刊書を読み、夜はラジオのスウィッチをひねり、興いたれば蓄音機のちりを払つて古今の名曲をたのしむこともできるが、映画だけはまだそのにおいすらもかぐことができないのである。してみると他のものと比較して映画の普及力とはいつたい何を意味するのかと今さらその言葉の空虚さにあきれてしまうのである。
特定の場所へ行かなければ見られないという苛酷な制限が映画の本質であるかどうかはまだ疑問としておきたいが、残念ながら現在のところでは映画の普及率は新聞雑誌やラジオの浸透性には及びもつかないのだという簡単な事実に今さら私は眼を見張つているのである。