顔の美について
本文約1,700字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
人間の顔というものは、寿命が尽きる間際にその人なりに最も調和の取れた完全な相貌に達すると考察する。本書は、流行の美容手術に対する批判を展開しながら、真の美しさは精神的な教養が宿ることで初めて醸し出されると論じる。顔立ちの良し悪しにとらわれず、内面的な深みを重んじる重要性を説き、人生をかけて自己の容貌と向き合うことの意義を綴るエッセイである。
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人間が死ぬる前、与えられた寿命が終りに近づいたときは、その人間の分相応に完全な相貌に到達するのであろうと思う。
完全な相貌といつただけでは何のことかわからぬが、その意味は、要するにその人の顔に与えられた材料をもつてしては、これ以上立派な形は造れないという限界のことをいうのである。
私は時たま自分の顔を鏡に見て、そのあまりにまとまりのないことに愛想が尽きることがある。私の顔をまずがまんのできる程度に整えるためには私は歯を喰いしばり、眉間に皺を寄せて、顔中の筋肉を緊張させてあたかも喧嘩腰にならねばならぬ。しかし二六時中そんな顔ばかりをして暮せるものではない。
おそらくひとりでぼんやりしているときは、どうにもだらしのない顔をしているのであろう。
その時の自分の顔を想像するとちよつと憂鬱になる。
気どつたり、すましたりしていないときでも、いつ、どこからでも十分観賞に堪え得る顔になれたら自由で安心でいい心持ちだろうとは思うが、他人から見て立派な顔と思われる人でも、本人の身になれば、案外不安なものかもしれない。
私が今まで接した日本人で一番感心した顔は死んだ岸田劉生氏であるが、そのあまりにも神経質な言行は、せつかく大陸的に出来上つた容貌の価値を損ずるようでいかにも惜しく思われた。近ごろは西洋かぶれの流行から一般の美意識は二重まぶたを好むようであるが、あまりはつきりした二重まぶたは精神的な陰翳が感じられなく甘いばかりで無味乾燥なものである。東洋的な深みや味は一重まぶたもしくははつきりしない二重まぶたにあり、長く眺めて飽きないのはやはりこの種の顔である。
近ごろばかな人間が手術をして一重まぶたから二重まぶたに転向する例があるが、もつたいない話である。それも本当に美しくなれるならまだしもであるが、手術後の結果を見るとたいがい徹宵泣きあかしたあとのような眼になつてしかも本人は得意でいるから驚く。
いつたい医者という商売はどういう商売であるか。
自分の商売の本質をよく考えてみたらこんな畠ちがいの方面にまで手を出せるわけのものではあるまい。