小説家後藤宙外氏が鎌倉に住んでいた比のことであると云うから、明治三十年前後のことであろう、その時鎌倉の雪の下、つまり八幡宮の前に饅頭屋があって、東京から避暑に往っていた××君がその前を通っていると、饅頭屋の主翁が出て来て、
「あなたは××さんと云う方ではございませんか」
と己の姓名を云うので、そうだと云うと、
「こんなことを、だしぬけに申しましては、へんでございますが、二階堂の方の別荘にいらっしゃる――と云う奥さんが、あなたをお見かけ申したら、どうかお遊びにいらしてくだされるように、お願い申してくれと、こんなに申しつかっておりますから、どうかそこへお遊びに往ってやってくださいませ」
と云った。××君はそんな女にちかづきはなかった。
「それは、なにか人ちがいでしょう、僕はそんな方は知らないから」
「奥さんも、わたしの名なんかお忘れになっていらっしゃるだろうが、たいへん御厄介になった方だから、是非お目にかかりたいと思っているうちに、昨日八幡様の前でお目にかかったから、その時声をかけようと思っているうちに、つい声をかけそこなったから、明日でもこうしたかっぷくの方で、××さんとおっしゃる方がお通りになったら、どうしてもお遊びにいらっしてくださるように、お願いしてくれと、くれぐれもお頼みになって帰りました、決して人ちがいではございません、どうかお遊びに往ってくださいまし」
主翁が一所懸命になって云うので、避暑に来て怠屈している時であったから、時間つぶしにと思って番地を聞いたうえで出かけて往った。そこは二階堂の別荘建の家で、案内をこうて入って往くと、待ちかねていたとでも云うようにして丸髷の美しい女が出て来た。
「これは、ようこそいらっしてくださいました、とても御記憶はございますまいが、わたしは、非常に御恩になったものでございます、さあ、どうかずっと」
女は嬉しくてたまらないようであるが、××君はどうしても知らない女であった。
「私は、××ですが、――人ちがいではないでしょうか」
「けっして人違いではございません、さあ、どうか」