枯淡の風格を排す
本文約7,400字 ・ 読了時間 約15分
あらすじ(AIが作成しました)
「枯淡の風格」や「さび」といった人生態度を、肉や欲望の葛藤から逃避し、批判的精神を黙殺する毒々しいエゴイズムであると批判する評論。著者は、こうした態度を至上とする風潮を、正宗白鳥の作品や徳田秋声の『旅日記』などを例に挙げながら論じる。また、悩みや欲望から逃れようとする日本文学の伝統的な「通」の美意識や、人間が年を重ねるごとに丸くなるという風潮を否定し、徹底した自己の欲望に誠実であるべきだと主張する。
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「枯淡の風格」とか「さび」というものを私は認めることができない。これは要するに全く逃避的な態度であって、この態度が成り立つ反面には、人間の本道が肉や慾や死生の葛藤の中にあり、人は常住この葛藤にまきこまれて悩み苦しんでいることを示している。ところが「枯淡なる風格」とか「さび」とかの人生に向う態度は、この肉や慾の葛藤をそのまま肯定し、ちっとも作為は加えずに、しかも自身はそこから傷や痛みを受けない、ということをもって至上の境地とするのである。虫がいいという言種も、このへんのところへ来ると荘厳にさえ見えるから愉快である。
「枯淡なる態度」が煩瑣を逃れて山中へでも隠れ孤独を楽しむというような、単に逃避的なものであるならまだ許せるが、現世の葛藤をそのまま肯定し、しかも自身はそこから傷も痛みも受けないという図々しい境地になると、要するにその人生態度の根幹をなすところの一句は、自らの行うところに悔いをもつべからずということである。自らの行うところを善なりとか美なりと強調しない代りには、悪なり醜なりと悔いないところにこの態度の特質がある。自らの行うところは人にも之を許せというと、ひどく博愛にきこえるが、事実はさにあらず、これほどひねくれたエゴイズムはある筈はないし、自分にとって不利な批判的精神というものを完全に取りさろうというのだから、これほど素朴であり唾棄すべき生き方は他にない。人生の「枯淡なる風格」とは自らに悩みの種の批判的精神を黙殺することによって生れた風格に他ならない。