枯淡の風格を排す
本文約7,400字 ・ 読了時間 約15分
あらすじ(AIが作成しました)
枯淡の風格やさびを至上の境地とする人生態度について、それを現実の葛藤から目を背け、自らの醜や慾を肯定しつつ傷つかぬよう計算された逃避的エゴイズムであると論じる。著者は、正宗白鳥の作品や徳田秋声の『旅日記』に見られるそのような態度を厳しく批判し、苦悩から目を覆うのではなく、肉体を抱えて生きる人間が自己の本音と真摯に向き合うことの重要性を説く。老境に安んじるのではなく、毒々しいまでの徹底したエゴイズムの必要性を主張する評論である。
💰 この本を応援する(投げ銭)
「枯淡の風格」とか「さび」といふものを私は認めることができない。これは要するに全く逃避的な態度であつて、この態度が成り立つ反面には人間の本道が肉や慾や死生の葛藤の中にあり、人は常住この葛藤にまきこまれて悩み苦しんでゐることを示してゐる。ところが「枯淡なる風格」とか「さび」とかの人生に向ふ態度は、この肉や慾の葛藤をそのまま肯定し、ちつとも作為は加へずに、しかも自身はそこから傷や痛みを受けない、といふことをもつて至上の境地とするのである。虫がいい、といふ言種も、このへんのところへ来ると荘厳にさへ見えるから愉快である。
「枯淡なる態度」が煩瑣を逃れて山中へでも隠れ孤独を楽しむといふやうな、単に逃避的なものであるならまだ許せるが、現世の葛藤をそのまま肯定し、しかも自身はそこから傷も痛みも受けないといふ図々しい境地になると、要するにその人生態度の根幹をなすところの一句は、自らの行ふところに悔ひをもつべからずといふことである。自らの行ふところを善なりとか美なりと強調しない代りには、悪なり醜なりと悔ひないところにこの態度の特質がある。自らの行ふところは人にも之を許せといふと、ひどく博愛にきこえるが、事実はさにあらず、これほどひねくれたエゴイズムはある筈がないし、自分にとつて不利な批判的精神といふものを完全に取りさらうといふのだから、これほど素朴であり唾棄すべき生き方は他にない。人生の「枯淡なる風格」とは自らに悩みの種の批判的精神を黙殺することによつて生れた風格に他ならない。