土の中からの話
本文約10,300字 ・ 読了時間 約21分
あらすじ(AIが作成しました)
原稿用紙に特別な愛着を抱く著者が、土に根ざして生きる農民の精神構造を論じる。歴史の変転の裏で農民の損得勘定が権力移動の原動力となってきた事実を指摘し、古来変わらぬ農村の閉鎖的な保守性と、現実の責任を他者に転嫁する心理的傾向を分析する。また、『今昔物語』の説話を引き合いに出し、因果応報の輪の中にある人間や生き物の悲哀と狡猾さを浮き彫りにし、日本人の精神的特質を考察する随筆である。
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私は子供のとき新聞紙をまたいで親父に叱られた。尊い人の写真なども載るものだから、と親父の理窟であるが、親父自身さう思ひこんでゐたにしても実際はさうではないので、私の親父は商売が新聞記者なのだから、新聞紙にも自分のいのちを感じてゐたに相違ない。誰しも自分の商売に就てはさうなので、私のやうなだらしのない人間でも原稿用紙だけは身体の一部分のやうに大切にいたはる。先日徹夜して小説を書きあげたら変に心臓がドキドキして息苦しくなつてきたので、書きあげた五十枚ほどの小説を胸にあててみた。夏のことで暑いからふと紙のつめたさを胸に押し当ててみる気持になつただけのことであるが、心臓の上へ小説を押し当ててゐると、私はだらしなくセンチメンタルになつて、なつかしさで全てが一つに溶けてゆくやうな気持になつた。理窟ではないので、自分の仕事の愛情はさういふものだ。尤も書きあげて一週間もたつと、今度は見るのが怖しいやうな気持になり、題名を思ひだしてもゾッとするやうになつてしまふ。
あるとき友達の画家が、談たまたま手紙一般より恋文のことに至り、御婦人に宛てる手紙だけは原稿用紙は使はない、レター・ペーパーを用ひる、原稿用紙は下書きにすぎないから、と言ふ。私は初め彼の言葉が理解できなかつたほどだ。これも商売の差だけのことで外に意味はない。私にとつて原稿用紙はいのちの籠つたものであり、レターペーパーなどはオモチャでしかない。