一
去年の夏、本間久雄君が早稲田文学で「民衆芸術の意義及び価値」を発表して以来、此の民衆芸術と云う問題が、僕の眼に触れただけでも、今日まで十余名の人々によって彼地此地で論ぜられている。其の都度僕は、一つは民衆と云う事をいつも議論の生命とし対象としている僕自身の立場から、もう一つは誰れ一人として本当に此の民衆芸術と云う問題の真髄を掴えている人のいないらしいのに対する遺憾から是非とも其のお仲間入りをしたいとは思いながらも、遂に其の意を果たす事が出来なかった。
もう丸一年にもなる。文壇のいつもの例に拠ると、もう此の問題も消えて無くなる頃である。それでなくとも、民衆には丸で無関心な、若しくはロメン・ロオランの云ったように、民衆を少しも軽蔑しないと云う事を却って軽蔑のたねにする、即ち其の膏汗で自分等の力を養ってくれた親の田舎臭いのを恥じる、成上り者共の多い文壇の事である。五人や十人の、篤志なしかし無邪気な、或は新しもの好きの、或は又物知りぶりや見え坊の先生等が、其の一角で少々立ち騒いで見たところで、殆んど何んの跡かたも残さずに過ぎ去られて了うに違いない。
しかし僕は、飽くまでも此の問題は、いつものような文壇の流行品扱いを避けさせたい。民衆芸術は、ロメン・ロオランの云ったように、流行品ではない、ディレタント等の遊びではない。又、新しき社会の、其の感情の、其の思想の、已むに已まれぬ表現であると共に、老い傾いた旧い社会に対する其の闘争の機関である、ばかりではない。ロメン・ロオランが起草した、民衆劇場建設の檄にもあるように、此の問題は実に、民衆にとっても亦芸術にとっても、死ぬか生きるかの大問題である。
大げさな事を云う、と笑ってはいけない。殊に、今まで何んの彼のと我物顔に民衆芸術を説いていた人達には、単に闘争の機関と云っただけでも既にしかめっ面をしなければならない怪しからぬ事のように聞えるのであろうが、更に生きるか死ぬかの大問題だなどと云えば、きっと途方もない大げさな物の云いかたに聞えるに違いない。しかし、これが大げさに響かないようにならなければ、民衆芸術の本当の意義や価値は分からないのだ。
二