幕末維新懐古談
本文約4,200字 ・ 読了時間 約9分
あらすじ(AIが作成しました)
病気から復帰した高村光雲は、師匠の元で働き始める。ある日、アーレンス商会の番頭ベンケイと絵師・松本楓湖が訪れ、洋燈台となる唐子の彫刻を依頼する。当時としては破格の大作であり、光雲が製作を任される。先方の要望により試行錯誤を繰り返す苦難もあったが、最終的に完成させ、無事に引き渡す。本作はこの経験を通じ、従来の仏師の店が外国向け製品の製作を扱う転換期を迎えた様子を綴る。
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かれこれしている中に私は病気になった。
医師に掛かると、傷寒の軽いのだということだったが、今日でいえば腸チブスであった。お医師は漢法で柳橋の古川という上手な人でした。前後二月半ほども床に就いていました。
病気が癒るとまた仕事に取り掛かる。師匠の家の仕事も、博覧会の影響なども多少あって、注文も絶えず後から後からとあるという風で、まず繁昌の方であった。私が専ら師匠の代作をしていることなども、知る人は知っておって、私を認めている人なども自然に多くなるような風でありましたが、私としては何処までも師匠の蔭にいるものであって、よし、多少手柄があったとしても、そういうことは虚心でいるように心掛けておりました。
師匠は私の名が表面に出て人の注目を惹くようなことは好まれませんでした。世間の噂に私のことなどが出ても、私の耳へは入れませんでした。
さて、とかくするうち、明治十年の末か、十一年の春であったか、日取りは確と覚えませんが、その前後のこと、京橋築地にアーレンス商会というドイツ人経営の有名な商館があって、その番頭のベンケイという妙な名の男と逢うことになった。
この人は年はまだ二十四であったが、なかなかの利け者で、商売上の掛け引き万端、それはきびきびしたものであった。私は最初はこの人を三十以上の年輩と思っておったが、二十四と聞き、自分の年齢に比較して、まだ二つも年下でありながら、知らぬ国へ渡って、これだけ、立派に斬り廻して行くというは、さてさて豪いもの、国の文明が違うためか、人間の賢不肖によるか、いずれにしても我々は慚愧に堪えぬ次第であると、私は心秘かにこの人の利溌さに驚いていたのであった。