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TORENDIA

道成寺不見記

本文約2,200字 ・ 読了時間 約5分

あらすじ(AIが作成しました)

喜多六平太の道成寺を見逃した無念と、その舞台を鑑賞した知人からの感想を通じて能の本質を論じる。能は学問や知識で理解できるものではなく、観客自身が一切の先入観や知性を棄て、生命を賭して対峙して初めて真価が伝わる芸術であると説く。さらに、安易な理屈で能を批評する識者たちを批判し、純粋な心で能と向き合い、その内奥を見極めた江戸川乱歩らの批評の鋭さを称賛しつつ、能の深淵なる世界観を情熱的に綴る。

夢野久作

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🎧 道成寺不見記 / 朗読音声: VOICEVOX:九州そら

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恩師の一世一代という意味ばかりではない。喜多六平太の道成寺なるものを一度も見なかったせいばかりではない。喜多六平太氏の葵上を見て、怨霊ものとしての凄絶さに圧倒された体験のある筆者は、恩師六平太師をただ葵上と道成寺を舞うために生まれて来た人である。従ってこの道成寺は前後百年を通じて又見られない筈のものである。むしろ空前絶後と言いたいくらいに考えていた筆者であった。実さんもその他の友達も、是非見て置けと言った。当日ドンナ事になるか後で聞いて唸っても間に合わないぞ。折角生まれ合わせた甲斐にこの道成寺を見ない奴があるか……とさえ言われた。だから土に噛り付いても見る積りでいた。

それが、どうしても見られなくなった無念さをドコにどうして訴えたらいいだろう。

二十八日の当日は香椎の山の中で、ステキに早く眼が醒めた。何故そんなに早く眼が醒めたかわからなかったが、そのうちに今日が二十八日と気が付くと、立ってもいてもいられなくなった。見るもの聞くものイライラチラチラして来るので一日中、奥歯を噛みしめてジッとしていた。筆なんぞ執る気は無論しないから、古い自分の作品を読んで午睡にかかったが、どうしてもねむれない。頭の中がシュルリアリズムの絵みたいに冴えかえって、自分の作品が単なる活字の行列に見える向うに、四谷の舞台と釣鐘が見える。急の舞いの太鼓が聞こえる。烏帽子がキリキリキリと虚空に回転して飛んで行く。鐘がグーッと下って来る。ああたまらない。ビッショリと汗を掻いて起き上る。トテも睡れない。

午後になるのを待ちかねて、野球を見に行ったが、そのうちにやっと落着いて家に帰れた。

あとから聞くと、一日中機嫌が悪くて、妻子が弱ったそうであるが、自分は極力ニコニコしている積りであった。何かしら非常に疲れていたようで、早くからグッスリと睡った。日記も当日は白紙になっている。

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