ここ十日ばかりといふもの、何もせずにぼんやりと机の前に坐つて暮してゐる。一年の疲れが出て来たのかといふと、さうでもなく、ただなんとなくぼんやりしてゐる次第なのだ。今年の仕事がどうにか終つたのでほつとしてゐるせゐもあるが、まあとにかくここまでやつて来たと今年一ぱいを振りかへつて見る気持なのだ。何にしても死なないで生きてゐたといふことはめでたいことではないか。一寸先は闇、見えるものは生きてゐる自分の肉体だけであつてみれば、その肉体にまつはりつく一ヶ年の垢を眺めて見るのは、めでたくも切ない気持に相違なからう。
とはいへ、振返つて見てもこれといふ感想も浮んで来ない。ただ死損つた自分の虫の息が聴えて来るばかりだ。いはばこの一ヶ年は死損ふことばかりを続けてゐたやうなものであつた。我ながらあきれる次第であるけれども、しかし死損つてみなければ生きたといふことも解りはしまい。これは負惜しみだと思はれさうだが、発表した二三の作を読んでくれればそれは理解されるところもあらう。あれらの作は私の死損ひの記念品だからである。勿論駄作、読むに堪へまい。私自身も読み返すたびに嫌悪を覚えて腹が立つ。しかし、へこたれるといふことは私は嫌ひだ。私はまた来年も死損ひ続けることであらう。
粗い壁。壁に鼻をぶちつけて、
深夜――虻が羽ばたいてゐる。
つまり私は一ぴきの虻であつたのだ。だが孤独の恐しさにはもう慣れた。金も名声も女も、もはや私にとつては無用の長物。
「我々は永遠に果しない嘆息を繰返してゆくのさ。不幸を頭の中で作り出す(これが何よりも悪いのだ!)僕等は束の間の幻を築いてゐるのさ。自分の行く道に自ら茨を敷いてゐるんだ。やがて日は過ぎ去り、現実の不幸がやつて来る。それから僕等は澄み渡つた太陽の一條の光りも、安らかな一日の日も、雲をとめない一時の空も心に持ち得ずに死んで行く。なあに僕は幸福だよ。幸福でないわけがあるものか。」
と、エルネスト・シュバリエにあてて書いたフロオベルが、後年、年老いて何と書いたか。
「すべては長い間の夢です。大切なものはそれだけです。」