TRENDIA CLASSIC

青年

北條民雄

1 / 10

第一章

朝のうちに神戸港を出帆した汽船浪花丸がひどくたどたどしい足どりで四国のこの小さな港町に着いたのは、もうその日の夕暮であつた。まだ船がかなりの沖合に動いてゐる時分から、ばたばたと慌しげに洗顔に出かけたり、狭い三等船室でよろけながら身仕度を始めたりしてゐた客たちは、もうわれ先にとひしめきながら甲板に押し寄せて行くのだつた。十一月の上旬で、空はどんより曇つて、なんとなく降り出して来さうな気配が感ぜられ、海はその空を映して、青黒い無気味な色に波立つてゐた。

「なんやら降りさうだんな。」

「ほんまに、雲行きが悪うおますわ。」

「こりやあ待合所で傘買はんならんぞなもし。」

空を見上げながらさういふ心配げな会話が聴えたかと思ふと、一方では苛立たしさうに、

「早う船を着けんかい、なにさらつしよる、ぐづぐづするな!」

と、二三人が一度に喚き立てるのであつた。彼等は各自に振分け荷物や、一眼で安物だと判るやうなトランクをぶら提げてゐた。大部分が百姓であることはその着物の着こなしやシャツや、赤黒く陽焼けした顔や手で明かである。多分、大阪や神戸へ働きに出てゐる息子や娘のところへ、一晩宿りくらゐで出かけての帰りであらう。船はのろのろと桟橋に近寄つてゐる。どなつても喚いてもなんにもならないのであるが、彼等はただやけに喚き立てては苛立つのであつた。甲板に吹きつけて来る風はかなり冷たく、水洟をすすつてゐる老婆などもあつた。腕に赤い布を巻いた三等ボーイが、そのまはりを駈け廻りながら、

「あぶない、あぶない、縁寄つたらあかん、あかんちふに!」

と絶間なく叫び続けてゐる。着港の汽笛が鳴り、ガラガラと錨をおろす音が始まつた。

北條民雄の他の作品