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TORENDIA

流行歌曲について

本文約3,700字 ・ 読了時間 約8分

あらすじ(AIが作成しました)

現代の日本において、民衆の生活感情と遊離した文壇の文学や学校音楽に対し、唯一の民衆芸術である「町の流行唄」が民衆のリアルな喜怒哀楽を表現していると論じる。著者は、流行歌曲の変遷を通じて、時代の推移とともに日本文化が精神的リリシズムを失い、卑俗で陰惨なエロチシズムへと低落している現状を指摘する。音楽精神の衰退と社会の閉塞感の中で、時代に抗いながらもその流行歌に惹かれざるを得ない自身の苦悩と、現代文化の没落を鋭く考察する。

萩原朔太郎

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現代の日本に於ける、唯一の民衆芸術は何かと聞かれたら、僕は即座に町の小唄と答へるだらう。現代の日本は、実に「詩」を失つてゐる時代である。そして此所に詩といふのは、魂の渇きに水をあたへ、生活の枯燥を救つてくれる文学芸術を言ふのである。然るに今の日本には、さうした芸術といふものが全くないのだ。文壇の文学である詩や小説は、民衆の現実生活から遊離して、単なるインテリのデレツタンチズムになつて居るし、政府の官営してゐる学校音楽といふものも、同じやうに民衆の生活感情と縁がないのだ。真に今日、日本の現実する社会相と接触し、民衆のリアルな喜怒哀楽を表現してゐる芸術は、蓄音機のレコード等によつて唄はれてる、町の流行唄以外にないのである。

僕は町を歩く毎に、いつもこの町の音楽の前に聴き惚れて居る。そして酒に酔つた時は、いつも大衆と一所にそれを合唱したくなるのである。音楽といふものは、本来皆その精神に「合唱性」を持つてるものだ。なぜなら音楽は詩と同じく、普遍に通ずるカメラードへの呼びかけであるからである。町の音楽をきいて、僕がそれを大衆と一所に唄ひたくなるといふのは、つまりその音楽の中に、僕等の時代に生きてるところの、社会人一般の情操を代表してゐるものがあるからである。この点から言へば、僕等のインテリ階級者と一般社会大衆人との間に、何の生活的劃線があるわけではない。一般社会人の悲しみは、常にそれ自ら僕等の心に反映してゐる悲しみなのだ。しかも僕等のインテリ文学は、この現実の社会感情から遊離して居り、却つて無智の大衆芸術である町の小唄が、僕等の求めてる真のリリツクを正直によく歌つてくれるのである。僕等の時代の文学者が、文壇の詩に退屈して、町の小唄音楽に却つて心の渇きを充たして居るといふのは、現代日本文化の畸型的な発育を反証するところの、一つのイロニカルな現像にちがひない。

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