このごろは淺間山もしきりに煙を噴いてゐる。鳴動して黒煙を吐き白煙を吐いてゐる。天明の大噴火を想像すると、今の世にだつて、無數の熔岩が猛烈な勢ひをもつて湧出して、六里ヶ原の慘状を新たに現出するのではないかと氣遣はれたりするのであるが、それは詩中の不安情調で、わが心に陰鬱の影がさすのではない。さえた空に、鳴動とともに、むくむくと噴き上つた煙が漂ふのは、見るからに壯快なのである。
目に見えぬ灰が、いつとなしに地上に跡を留めてゐることがあつても、それはそれだけのことである。今のところ噴火の灰はいはゆる「ビキニの灰」のやうに陰慘ではない。天地に生氣が加つてゐるやうなものである。ところで、新聞やラジオの傳へるところによると、それが眞實であるなら、遠い太平洋で人爲的に降らされてゐる灰は恐るべきものである。人類發生以來、人間はさまざまな恐怖のなかに、どうにか生き續けてきたのであつたが、今度は恐怖のどん詰まりまできたやうな豫感に襲はれるのである。新聞の記事や世間のウハサは、針小棒大の誇張癖を持つてゐるのだからそれをそのままに信じて恐れるのは、杞憂ともいふべきもので、徒らにしよげ返るには及ぶまいと、氣を取り直してゐようとしても、それも不可能でありさうだ。個々の恐怖ではなくつて、人類全體の運命にかかはることなのだから、知者も愚者も、顏の黒い者も顏の白い者も、共同一致して、人類滅亡力を持つてゐる兇惡な魔物を何處かへ封じ込むべきもので、それについては、アンケートを出して訊かなくつたつて、だれも異論はないはずであるが、私は、それについての究極の效果を疑ふのである。
學者とか何とかの假面をかぶつた惡魔が一度さういふ兇器をつくり出した以上は、いかなる場合かに、それが使用されて、人類の運命を決めてしまふのではないかと私には疑はれるのである。