夜の構図
本文約61,200字 ・ 読了時間 約123分
あらすじ(AIが作成しました)
劇作家の信吉は、上演のために上京し滞在中のホテルで、行きずりの娘と一夜を共にする。後日、ホテルで知り合った新内語りから新聞広告の暗号を用いた奇妙な女性の誘いについて聞かされる。信吉は冴子という女性と関わりを持つが、彼女のひたむきさと貧しさに触れ、このまま離れられなくなるのではないかという自身の脆い人生観と孤独を深く自覚していく。本作は、予期せぬ出会いと別れの中で葛藤する男の心情を描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
第一章
ホテルを出ると雨が降っていた事。
三五二号室の女の代りに四二一号室の女に外科手術をする事。
並んで第一ホテルを出ると雨であった。鋪道の濡れ方で、もう一時間も前から降っていたと判った。少しの雨なら直ぐ乾き切ってしまう真夏の午後なのだ。
一時間も前から降っていたということがいきなり信吉を憂愁の感覚で捉えてしまった。しかし、この寂しさは一体何であろう……。
雨が降るということには、何の意味もない。チエホフの芝居の主人公なら、
「雨が降っている、これは何の意味です。何の意味もありやしませんよ」
と言うところであろう。
雨が降っている……。極めてありふれた自然現象に過ぎない。
しかし、このありふれた現象が自分の知らぬ間に起っていたということが信吉には新鮮な驚きであった。
何故か。
雨が鋪道を濡らしていた一時間、信吉はホテルの第四五三号室のベッドの上で、見も知らぬ行きずりの女の体を濡らしていたのである。
娘は中筋伊都子という。十九歳だが、雀斑が多いので二十二歳に見える。少し斜視がかって、腋臭がある。
一時間前までは、信吉と伊都子は赤の他人であった。伊都子は信吉にとって、まるで急行通過駅の如き存在に過ぎなかった。が、一時間後、並んでホテルを出た時には、もう信吉は伊都子の体を隅々まで知ってしまっていた。急行列車が通過する早さで知ってしまったのだ。
その女の方から誘いを掛けて、信吉の胸に飛び込んで来たとはいうもののその余りのあっけなさはさすがに悔恨となっていた。しかしこの悔恨から来る寂しさではなかった。もとより、ああ雨が降っている……というしみじみした感傷でもなかった。
伊都子と部屋に居る間、そのことと関係なしに雨が降っていたということ、しかもそれを知らずにいたということ、ホテルの部屋と雨が降っている戸外とが、まるで違った世界であったこと……それから来る憂愁の感覚であった。しかしこの感覚は信吉には説明出来ない。孤独とはこんなものであろうか。