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私は前かたから謡曲を何よりの楽しみにして居りまして、唯今では家内中一統で稽古して居ります。松篁夫婦、それから孫も仕舞を習っているという工合で、一週に一度ずつは先生に来て頂いているという、まあ熱心さです。
家の内の楽しみもいろいろあります。私や松篁など、絵のことはそれは別としまして、茶もあれば花もあり、また唄いもの弾きもの、その他の遊芸などもありますが、その中で謡曲、能楽の道はなんといっても一とう物深く精神的でもあり、芸術的でもあって飽きがきませんのみか、習えば習うほど、稽古を積めば積むほど娯しみが深くなってゆきまして、大業に申せば、私どもの生活のすぐれた糧となって居ります。
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能楽に用いる面ですが、あれは佳いものになると、よく見れば見るほど微妙なもので感心させられます。名人達人の作になるものなど、まるで生きている人間の魂が、そこに潜んでいるのかと想われるほどの[#「想われるほどの」は底本では「想われほどの」]ものです。
そのすぐれた面を着けて、最もすぐれた名人があの舞台に立つと、顔上面なく、面裡人なしとでも申しましょうか、その面と人とが精神も肉身も合致合体、全く一つのものに化してしまって、さながらに厳然たる人格と心格を築き出します。この境涯は筆紙言舌の限りではありません。
この境涯では、人が面を着けているなどいう、そんな浅間な感情などは毛筋ほども働いていません。
よく能面の表情は固定していて、死んだ表情であり、無表情というにひとしいなどと素人の人たちがいうのですが、それは能楽にも仕舞にも何等の徹底した鑑賞心をもって居らないからの言葉でありまして、名人の場合など、なかなかそんな批点の打ちどころなどあるものではありません。
無表情と言いますが、名人がその面をつけて舞台に立ちますと、その無表情な面に無限な表情を発します。悲しみ、ほほえみ、喜び、憂い、その場その場により、その時その時に従って、無限の表情が流露して尽くるところがありません。
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