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TORENDIA

朝顔日記の深雪と淀君

本文約1,900字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

画家が絵画における美の在り方について論じる。近年の流行を追うだけの非芸術的な風俗を批判し、芸術家が対象の美を見出し表現する重要性を説く。さらに、自身の芸術観に基づき、日本の婦人の風俗に対する理想を述べつつ、『朝顔日記』の深雪と淀君という正反対の性質を持つ二人の女性が象徴する型への愛着を綴る。

上村松園

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🎧 朝顔日記の深雪と淀君 / 朗読音声: VOICEVOX:青山龍星

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美人画といって画家が美人を専門に描くようになったのは日本では浮世絵以後のことだろうと思われますが、浮世絵画家のうちで私は春信と長春が好きです。

近頃、しきりに若い人達に流行っている女の絵に対してはどうもわたしには賛成の出来かねる節が沢山あります。女の画を描くといえば必ず美人を描かねばならないとも思いませぬが、すでに芸術であり美術である以上、作られた作品がただ単に醜悪不快の念を観る人に与えるばかりでは、芸術としての価値が減ずるようにさえ思われます。したがってここに人々に依って異なる芸術観も出るわけでありましょうけれども、近頃流行っている女の絵を見ますと、毒々しいほどに肥った顔、手足、まるで女の相撲取を見るように不快な感じを与えられるのが沢山ありますが、人々の趣向が美しくなくともせめて不快でない程度に向って欲しいものだと思います。

画家が描こうとする画題を他から限定される性質のものでないことはいうまでもありませぬから、ある場合には乞食を採り入れる必要のあるような構図が出来るかも知れませぬ。たとえばそのような場合にしましても、乞食の醜悪のみを写し出して、観る者に不快の念を与えるような図にしなくとも済まされるはずだと思います。乞食は乞食にしても、何処かに芸術になる何かを持っているはずです。それを捜し出し写し出すところに芸術家の使命があると思います。醜女の醜を描く必要のある場合にしましても、幽霊の凄さを出す必要がある場合にしましても、それらがほんとうの意味の芸術に触れているとしますれば、きっと観る者に不愉快を与えないはずだと思われます。ほんとうの芸術は観る者に不快の念を与えるものではないはずだと思います。

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