刎橋の受け台について
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あらすじ(AIが作成しました)
吉原のおはぐろ溝に架かっていた刎橋の構造、特に廓の内側から外側へ架け渡す橋板を受け留める「受け台」の仕組みについて論じる。著者はかつて舞踊の装置制作の必要からこの刎橋の調査を試みたが、現地は面影を留めておらず、古老からの聞き取りでも受け台の詳細は判明しなかった。本書は、後に明治三十一年発行の「新吉原画報」に掲載された尾竹国観による写生画を通じて、この疑問が解明されるに至った経緯と、刎橋の構造的特徴を記した一冊である。
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吉原のおはぐろ溝とこれに架かつた刎橋――(一葉がこの字を使つている)――「たけくらべ」にいふ「……垢ぬけのせし三十あまりの年増、小ざつぱりとせし唐棧ぞろひに紺足袋はきて、雪駄ちやらちやら忙がしげに横抱きの小包はとはでもしるし、茶屋が棧橋とんと沙汰して、廻り遠やこゝからあげまする、誂へ物の仕事やさんとこのあたりに言ふぞかし……」、この棧橋。
この構造については、――前に調べたことがあつたが、その時よく分らなかつたのは、廓内の向うから落ちて架かつて来る刎橋を溝のこつちがしで受け留める、その「受け台」についてゞある。
ところが、それがやつと分つたので、何かの文献にもと、書いておくことにした。
元々このハネバシについてぼくが書いたのは、前にも説明したやうに、舞踊の装置方をたのまれたからで、それで、ぼくとしては矢来町からの名指しでは、といふわけで、気込んで、多少は見ても書いても知つてゐたこの材料についてのチシキを、もつとしつかりしたものにしようと、前に記したやうに、あの土地へ出かけて、古老に聞きなどしたものだつた。ハネバシ考の「考」の字は飛んだひようたんから駒のいきさつを自ら喋したつもりだつた。――しかし受け台のことばかりは、その時分らず仕舞ひだつた。土地の古老の話もそこははつきりしなかつた。
いふ迄もなく「現地調査」にわざわざ千束町から龍泉寺町、地方今戸界隈迄、出かけたとは云つても、それは丁度、旅順へ観光に出かけて在りし日の激戦の様を偲ばうとするやうなもので、地形だけはざつと似てゐようとも、そこには溝も無ければ「橋」など痕跡さへその後は止どめない。やつと最後の状態の溝の川幅がコンクリートで舗装された道に、この辺かと、推定が付く位ゐのことである。