TRENDIA CLASSIC

蟇の血

田中貢太郎

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三島譲は先輩の家を出た。まだ雨が残つてゐるやうな雨雲が空いちめんに流れてゐる晩で、暗い上に雨水を含んだ地べたがジクジクしてゐて、はねがあがるやうで早くは歩けなかつた。その上、山の手の場末の町であるから十時を打つて間もないのに、両側の人家はもう寝てしまつてひつそりとしてゐるので、非常に路が遠いやうに思はれて来る。で、車があるなら電車まで乗りたいと思ひ出したが、夕方来る時車のあるやうな所もなかつたのですぐそのことは断念した。断念するとともに今まで先輩に相談してゐた女のことが意識に登つて来た。……(もすこし女の身元や素状を調べる必要があるね、)と云つた先輩の言葉が浮んで来た。……法科出身の藤原君としては、素状も何も判らない女と同棲することを乱暴だと思ふのはもつともなことだが、過去はどうでも好いだらう。此の国の海岸の町に生れて三つの年に医者をしてゐた父親に死なれ、母親が再縁した漁業会社の社長をしてゐる人の所で大きくなり、三年前に母が亡くなつた頃から家庭が冷たくなつて来たので、昨年になつて家を逃げ出したと云ふのが本当だらう。血統のことなんかは判らないが。大したこともないだらう……。

……(一体女がそんな手もなく出来るもんかね、)と云つて笑つた先輩の言葉がふとまた浮んで来る。……なるほど考へて見ると彼の女を得たのはむしろ不思議と思ふくらゐに偶然な機会からであつた。しかし世間一般の例から云つてみるとありふれた珍しくもないことである。自分は今度の高等文官試験の本準備にかかる前に五六日海岸の空気を吸ふてみるためであつたが、一口に云へば一人の若い男が海岸へ遊びに行つてゐて、偶然に若い女と知合になりその晩の内に離れられないものとなつてしまつたと云ふ、毎日新聞の社会記事の中にある簡単な事件で、別に不思議でもなんでもない。

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