TRENDIA CLASSIC

豊島ヶ岡

大町桂月

1 / 2

江戸川の終點にて下り、目白臺を左にし、小日向臺を右にして、音羽八町を行き盡くせば、護國寺の門につき當る。そこを豐島ヶ岡と稱す。一帶の丘陵、樹木欝蒼として秀色掬すべし。殊に音羽の道路の坂ともつかずに次第々々に高まること、他に其比を見ず。門前より牛込を見渡してもはれ/″\しく、音羽の入口より豐島ヶ岡の秀色を仰ぐの風致は、げに都の中にもと驚かるゝばかり也。

豐島ヶ岡は、一に墳墓の岡とも云ふべくや。豐島御陵は、皇族御埋骨の地也。護國寺には、三條公、山田顯義を始め、墳墓多し。陸車埋葬地は、入營中に死せる兵士を葬る處、墓も規則正しく行列す。西に雜司ヶ谷埋葬地あり。第一青山、第二谷中、第三染井と、東京の墓地を數へ來らば、第四には、こゝの墓地が入れらるべし。豐島御陵の東に接して、儒者棄場もあり。この墳墓の岡に、眞言宗豐山派の豐山大學、豐山中學もあれば、女子大學の寄宿舍もあり。晩香寮とは、中學教育程度にて嫁する女に對しての名にや。大鬼小鬼夜哭するの地に、明日の榮華を夢みる青春の男女の集まれるかと思ふにつけても、つく/″\『孤村至レ曉猶燈火、知有二人家夜讀一レ書』のあはれなるを覺え、『骸骨の上を粧うて花見かな』の一層痛切なるを覺えずむばあらず。

儒者棄場、今は學者塚と稱す。護國寺の門前を東に行き、坂に就かむとする處より北に行くこと一二町、路三つにわかる。中央の路最も大に、右の路やゝ小に、左の路最も小也。その最も小なる路を取り、つき當りて右折し、間もなく左折すれば、儒者棄場に達すべし。室鳩巣、岡田寒泉、柴野栗山、尾藤二州、古賀精里、同庵など、江戸時代第一流の儒者の墓多く集まりたり。いづれも、みな幕府の儒官也。

大町桂月の他の作品