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TORENDIA

美しいだけでは間にあはない

本文約940字 ・ 読了時間 約2分

あらすじ(AIが作成しました)

詩と劇の根源的な関係を考察し、劇における思想の重要性を論じる。従来の写実主義や心理主義に基づいた演劇が、個人的な苦悩の投影にとどまる現状を指摘。劇場に求められるカタルシスの概念が、個人を超えた時代の苦悩や矛盾を捉えるものへと変容していることを示し、今日の観客が真に必要とする普遍的な感銘を呼び起こすための「思想」を託した演劇のあり方を追究する。

加藤道夫

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🎧 美しいだけでは間にあはない / 朗読音声: VOICEVOX:九州そら

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詩と劇とは元來、本質的に切り離せぬ關係にあるが、「思想」が劇に不可缺のものであるとは特に言ひきれない。我々は「思想」のない劇には飽きる程觸れて來たし、美しいとか面白いとか云ふ點で稱讃もして來た。思想劇と云ふ名稱は或る時期には「退屈」の代名詞の樣にさへ使はれてゐた。美しいのはいい。面白いのはいい。だが、美しいだけでは、面白いだけでは間に合はぬ時代になつてしまつたやうである。劇の思想性が反省されねばならぬ時であらう。

僕はこの頃では、別に斬新奇拔な戲曲を書きたいなどとは思はないが、唯、舞臺を通して眞に今日的な世界像や人間像に僕自身のイデエを託したいと云ふ切實な希ひにしきりにとらへられる。新劇は今までのやうな日常的な小世界の描寫や心理風俗の展開から大きな此の時代のドラマにまで飛躍して行かねば、やがて命數が盡きてしまふのではないか、とさへ思ふ。演劇の言葉が多愛もない娯樂の爲だとか、さゝやかな心理的共鳴の爲にのみあるべき時代ではなくなつたやうである。人々は依然劇場へカタルシスを求めて行く。だが彼等は個人的苦惱よりももつと大きな時代的苦惱を背負つてゐる。彼等の求めるカタルシスの概念そのものが既に變つて來てゐるのだ。

寫實主義の時代にはカタルシスの概念は個別的であつた。可視的世界の描寫と人間性格のまことらしき再現に依つて人々は夫々の心裡に個別的なカタルシスを行つた。更に心理主義は演劇を見えざる人間心理の内面へと深めた。寫實主義と心理主義が結びつくと、登場人物の外的表情と内的表情の複雜な葛藤が尤もらしい事件や出來事を通じて異樣に鮮かに浮彫されて來るやうになつたがその感銘も矢張り個別的なもので、個人々々の内的苦惱が心理的共鳴を呼ぶに過ぎない場合が多い。

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