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TORENDIA

目に見えない怪物

本文約1,100字 ・ 読了時間 約3分

あらすじ(AIが作成しました)

学生時代に能楽堂へ通いつめた著者が、能の魂や真髄について綴る。曲と演者の呼吸が完璧に合う時、舞台にみなぎる異様な実在感や目に見えない怪物の正体を考察する。演者の内面の充実が欠かせない原始的な形式である能が、現代においても生き続ける可能性を模索する。また、伝統的な能の現代化に挑む三島由紀夫の試みを引き合いに出し、現代風俗の中で能の本質を捉えることの難しさと可能性について論じる。

加藤道夫

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🎧 目に見えない怪物 / 朗読音声: VOICEVOX:波音リツ

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戰後になつてから餘り見なくなつてしまつたが、學生時代には僕も隨分足繁く能樂堂に通つたものだ。併し、正直に言ふと僕自身「能」の世界に入り込める樣になるには大分時間がかゝつた樣である。初めのうちは退屈で居眠りをしたりした覺えもある。ところが次第に「能」の魂みたいなものが分つて來た。いゝ能とつまらない能の區別がはつきり分つて來た。能も結局、曲と演者で、この二つがぴつたり息が合つた時初めて醍醐味が出て來る。何か「目に見えない怪物」の樣に異樣な實在感が舞臺一杯にみなぎつて、我々の心を打つ。曲は矢張り世阿彌のものにそれが一番あると思つた。演者で好きなのは亡くなつた万三郎師と現在では六平太師である。今でも好きな人がいゝ曲を演ると時々見に行くが、藝の熟さない人のをみると同じ曲でも全然空ろな感じで、退屈してしまふ。

何もない舞臺で、きまりきつた展開法で、單調な謠ひ方と囃し方だけで演る極めて原始的な演劇形式だから、實に率直に作者と演者の内面が舞臺に反映する。内面の充實のない曲はどんなに迂餘曲折があつても面白くない。同樣にどんないゝ曲でも演者の意識が十分充實してゐないと「目に見えない怪物」は姿を現さない。此處では想像力が純粹にその役目を果すのだ。だから觀るものにも演ずるものにも能舞臺程率直な試驗臺はない。

文學的にみても、謠曲の語彙などさして廣汎なものではないのに、同じ樣な言葉を使つて同じ節しで謠つて、はつきりと何物かが生きてゐる曲と、何物も生きてゐない曲とがある。(前者の方が寧ろ稀であるが。その生きてゐるものには今の世の我々も感動出來るのだから、能は現代でも生きてゐると言へるだらう。唯、現代に於てその生きてゐるものをつかまへるには、能舞臺そのものが餘りにも我々の生活から遠いのであり、能の形式そのものが餘りにも現代的でないのである。

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