TRENDIA CLASSIC

黄昏の地中海

永井荷風

1 / 6

ガスコンの海湾を越え葡萄牙の海岸に沿うて東南へと、やがて西班牙の岸について南にマロツクの陸地と真白なタンヂヱーの人家を望み、北には三角形なすジブラルタルの岩山を見ながら地中海に進み入る時、自分はどうかして自分の乗つて居る此の船が、何かの災難で、破れるか沈むかしてくれゝばよいと祈つた。

さすれば自分は救助船に載せられて、北へも南へも僅か三哩ほどしかない、手に取るやうに見える向の岸に上る事が出来やう。心にもなく日本に帰る道すがら自分は今一度ヨーロツパの土を踏む事が出来やう。ヨーロツパも文明の中心からは遠つて男ははでな着物きて、夜の窓下にセレナドを弾き、女は薔薇の花を黒髪にさしあらはなる半身をマンチラに蔽ひ、夜を明して舞ひ戯るゝ遊楽の西班牙を見る事が出来るであらう。

今、舷から手にとるやうに望まれる向の山――日に照らされて土は乾き、樹木は少く、黄ばんだ草のみに蔽はれた山間に白い壁塗りの人家がチラ/\見える、――あの山一ツ越えれば其処は乃ちミユツセが歌つたアンダルジヤぢやないか。ビゼーが不朽の音楽を作つた「カルメン」の故郷ぢやないか。

目もくらむ衣裳の色彩と熱情湧きほとばしる音楽を愛し、風の吹くまゝ気の行くまゝの恋を思ふ人は、誰れか心をドンジヤンが祖国イスパニヤに馳せぬものがあらう。

永井荷風の他の作品