TRENDIA CLASSIC

舞姫

永井荷風

1 / 2

お! ローザ、トリアニ。リヨンのオペラ座、第一の舞姫、ローザ、トリアニ。

われ始めて、番組の面に、第一位舞踏者なる位付けせし、君が名を読みし時、お、ローザ、トリアニ。われは暖き伊太利亜より来ませし姫かと疑ひぬ。君がふくやかなる長き面は、誰が目にも、まがうかたなきフランスの姫ならざりしか。舞台に出るフランスのかゝる技芸家は、好みて伊太利亜綴りの芸名を用ゆと覚ゆ。伊太利亜つゞりは、まこと、耳にさはやかなり。お、ローザ、トリアニ!

そも、われの始めて君を見まつりしは、其の年の秋、君が未だリヨン市設のオペラ座の舞台に出で給はざる前なりし。ローン河に横はる橋々の袂に、其の年の初演奏はワグナーのワルキール、次の夜にはグノーがフオーストとの予告は出でたり。われは初めて見るリヨンのオペラ、巴里の其れにくらべばや人より先きによき席を得んとて、本屋、小間物屋の店、勧工場の如く連りし劇場の柱太き廻廊を、札売る方に進み行きし時、われは初めて君を見まつりしなり。お、ローザ、トリアニ!

其の時、君は形余り大ならざる帽を後ざまに、いともはでなる弁慶縞なす薄色地の散歩着を着給ひぬ。夕暮の急ぐ人、狭き廻廊を押合ひ行く中に、君が衣服の縞柄の、如何にわが目を引きたりし。君は恋の絵葉書売る店先に、媼と立ちて語り給ふ。われは近く寄進みて、君が面を見まもりき。お、ローザ、トリアニ!

君が面は恐しきまで美しく、頬の紅、唇の紅にてかざられき。恐しきまで美しとは、かゝる化粧の技は、よく物事わきまへぬ妻、娘の、夢企て及ぶべき処ならねば。何とは云はん、われにして、若し若干の富を抛たしめば、今宵を待たず、君と共に一杯の美酒を傾け得べしと思ひぬ。妄想は忽ち、わが慾深き眼を、ひたすら、君が衣服につゝまれし形体のいみじさに移らしめぬ。肩より腰、かゝるいみじき肉の誇りは、飢に追はれ餌につかれし世の常の遊び女には見得べからず、幸ありしよ、われは。われは先取の権を得ばやと、狼の如く君が立去る後に従ひぬ。君が姿は廻廊を後に、暗く狭き楽屋の戸口に消えぬ。そこには大道具の書割をつみたる荷馬車ありき。お、ローザ、トリアニ!

永井荷風の他の作品