虫干
本文約6,400字 ・ 読了時間 約13分
あらすじ(AIが作成しました)
毎年恒例の虫干を行う語り手が、蔵から取り出した明治初年の草双紙や漢文体の雑書、小袖などを通じて、過ぎ去った時代の風俗や流行に触れる様子を綴る。客座敷に並べられた古い資料から、江戸から明治にかけての社会の変化や、当時の文明開化の空気感、劇作家・河竹黙阿弥の作品に見られる江戸的デカダンス思想などを考察する。語り手は、虫干という行為を通じて、過去の時代の記憶や人々の生活の変遷に思いを馳せ、静かな思索の時間を過ごす。
💰 この本を応援する(投げ銭)
毎年一度の虫干の日ほど、なつかしいものはない。
家中で一番広い客座敷の縁先には、亡つた人達の小袖や、年寄つた母上の若い時分の長襦袢などが、幾枚となくつり下げられ、其のかげになつて薄暗く妙に涼しい座敷の畳の上には歩く隙間もないほどに、古い蔵書や書画帖などが並べられる。
色のさめた古い衣裳の仕立方と、紋の大きさ、縞柄、染模様などは、鋭い樟脳の匂ひと共に、自分に取つては年毎にいよ/\なつかしく、過ぎ去つた時代の風俗と流行とを語つて聞せる。古い蔵書のさま/″\な種類は、其の折々の自分の趣味思想によつて、自分の家にもこんな面白いものがあつたのかと、忘れてゐた自分の眼を驚かす。
近頃になつて父が頻と買込まれる支那や朝鮮の珍本は、自分の趣味知識とは余りに懸隔が烈し過ぎる。古い英語の経済学や万国史はさして珍しくもない。今年の虫干の昼過ぎ、一番自分の眼を驚かし喜ばしたものは、明治初年の頃に出版された草双紙や綿絵や又は漢文体の雑書であつた。
明治初年の出版物は自分が此の世に生れ落ちた当時の人情世態を語る尊い記録である。自分の身の上ばかりではない。自分を生んだ頃の父と母との若い華やかな時代をも語るものである。苔と落葉と土とに埋れてしまつた古い石碑の面を恐る/\洗ひ清めながら、磨滅した文字の一ツ一ツを捜り出して行くやうな心持で、自分は先づ第一に、「東京新繁昌記」と言ふ漢文体の書籍を拾ひ読みした。