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TORENDIA

俳句はかく解しかく味う

本文約72,100字 ・ 読了時間 約145分

あらすじ(AIが作成しました)

俳句という詩形を芭蕉の文学と位置づけ、その歴史的変遷や解釈の指針を論じる。特定の時代に囚われず、俳句特有の軽みや趣向、季節感の捉え方について、太祇や蕪村らの句を挙げつつ解説する。また、詠史の句がもたらす悲壮感と滑稽さの対比や、実際に感じる季節感と文学的な季語の趣の乖離など、俳句の解釈力を養うための視点を綴る。

高浜虚子

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俳諧の歴史というものは厳密にいえば殆んどまだ調べがついていないというてよい。芭蕉とか蕪村とかいう重な二、三の俳人については相当の研究をした人もあるけれども、俳句全体の歴史を文学史的に研究した人はまだ一人もないといって差支ないのである。しかして世間で普通に説いている俳諧史は極めて簡略な極まりきった説話に過ぎん。今一層大胆に引っくるめて言えば、徳川初期から明治大正の今日に至るまで、多少の盛衰もあり多少の変化もあるにしたところで、要するに俳句は即ち芭蕉の文学であるといって差支ない事と考える。即ち松尾芭蕉なる者が出て、従来の俳句に一革命を企てた以来二百余年に渉る今日まで、数限りなく輩出するところの多くの俳人は、大概芭蕉のやった仕事を祖述しているに過ぎん。そこで今俳句を解釈するに当っても、元禄の俳句はこういう風に解釈せねばならぬが、天明の俳句はそれと全く違うてこういう風に解釈しなければならぬとか、明治大正の俳句はこういう風に解釈しなければならぬというような、そんな複雑した変化のあるものではなくって、或る俳句を抜き出して来て、一応それを解釈する事が出来るようになった以上は、大概の俳句はそれに準じてさほど困難を感ぜずに解釈の出来るものである。唯その中に読み込まれている材料の解釈がむつかしいがために、解釈が出来ぬというような場合は論外であるが、俳句なる或る特別の一つの詩形を解釈するだけの事は、若干句の解釈によって容易く領得せらるる事と考える。そこで私は殆んど時代なんかに頓著なしに数十句の解釈を試みて、諸君の俳句に対する解釈力というようなものを養うという事にしようと思う。

な折りそと折りてくれけり園の梅    太祇

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