入口の障子をがたがたと開けて、学生マントを着た小兵な学生が、雨水の光る蛇目傘を半畳にして、微暗い土間へ入って来た。もう明日の朝の準備をしてしまって、膳さきの二合を嘗めるようにして飲んでいた主翁は、盃を持ったなりに土間の方へ目をやった。
「いらっしゃい」
それは見覚えのある坂の下のお邸にいる書生さんであったが、たしかにどのお邸の書生さんと云うことは浮ばなかった。
「絹漉がありますか」
「絹漉ですか」主翁はこう云って、食卓の向うでとうに飯をすまして行火にあたっている女房の方を見て、「絹漉とおっしゃるのだ、まだ少し残っているのだな」
「ああ、すこしありますよ」女房は入口の方へ体を捻じ向けて、客を透すようにしたが、障子の陰になって客の姿は見えなかった。が、それでも、「いらっしゃいまし」
「三つあれば好いのですが」と云って、書生は咳を三つばかり続けてした。
「三つぐらいならあります、何方様でございましょう」
女房は腰をあげようとした。
「下のお邸さ、ええと」主翁はまだ思い出せない。
「下の桐島ですよ」と書生が云った。
「そうだ、桐島さんだ、何時も胴忘れをしましてね、で、絹漉は、ちりか何かになされるので」
「どうですか、やっこに切ると云ってましたよ」
「そうですか、やっこに、では、すぐお届けいたします」
女房が立って来て顔をだした。
「いらっしゃいまし、どうも御苦労さんでございます、殿様が大変お悪いと聞きましたが、如何でございます」
「どうも腎臓が悪うございましてね、今晩も夜伽に来てくれた方が、寒いから温い物で、酒を出すと云っておりますよ」
「そうですか、それは大変でございますね、ほんとにね、どんなことでもできるご地位でも、病気はしかたがございません」
「博士の二人もついていて養生しているのですが、面倒な病気になりますと、すぐ治らないのですからね」
「ほんとにね」
「僕が貰って往きましょうか」
「なに、すぐお届けいたします」主翁は後から云った。
「僕が貰って往っても好いのですよ、遅いし、雨も降ってますから」
「なに、よろしゅうございます、すぐお届けいたします」