TRENDIA CLASSIC

つゆのあとさき

永井荷風

1 / 95

女給の君江は午後三時からその日は銀座通のカッフェーへ出ればよいので、市ヶ谷本村町の貸間からぶらぶら堀端を歩み見附外から乗った乗合自動車を日比谷で下りた。そして鉄道線路のガードを前にして、場末の町へでも行ったような飲食店の旗ばかりが目につく横町へ曲り、貸事務所の硝子窓に周易判断金亀堂という金文字を掲げた売卜者をたずねた。

去年の暮あたりから、君江は再三気味のわるい事に出遇っていたからである。同じカッフェーの女給二、三人と歌舞伎座へ行った帰り、シールのコートから揃いの大島の羽織と小袖から長襦袢まで通して袂の先を切られたのが始まりで、その次には真珠入り本鼈甲のさし櫛をどこで抜かれたのか、知らぬ間に抜かれていたことがある。掏摸の仕業だと思えばそれまでの事であるが、またどうやら意趣ある者の悪戯ではないかという気がしたのは、その後猫の子の死んだのが貸間の押入に投入れてあった事である。君江はこの年月随分みだらな生活はして来たものの、しかしそれほど人から怨を受けるような悪いことをした覚えは、どう考えて見てもない。初めは唯不思議だとばかり、さして気にも留めなかったが、ついこの頃、『街巷新聞』といって、重に銀座辺の飲食店やカッフェーの女の噂をかく余り性の好くない小新聞に、君江が今日まで誰も知ろうはずがないと思っていた事が出ていたので、どうやら急に気味がわるくなって、人に勧められるがまま、まず卜占をみてもらおうと思ったのである。

永井荷風の他の作品