本文へ移動
TORENDIA

或る少女の死まで

本文約42,300字 ・ 読了時間 約85分

あらすじ(AIが作成しました)

根津の酒場で働く、純潔な微笑みを絶やさない少女と交流を重ねる語り手。ある朝、刑事の来訪を受けた彼は、夏の朝の風景を脳裏に焼き付けながら、過去の出来事を振り返る。それは酒場での酔客とのやりとりや、後に山元家での温かい晩餐を経て別れた少女との思い出であった。本作は、後に少女の訃報に接した語り手が、亡き彼女を偲んで綴った追悼の記録と、その少女の面影を回想する日々を描く。

室生犀星

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 51

[#ページの左右中央]

大正八年十一月

[#改ページ]

遠いところで私を呼ぶ声がするので、ふと眼をさますと、枕もとに宿のおかみが立っていた。それを見ながら私はまたうとうとと深い睡りに落ちかかった。

「是非会わなければならないと言って、そとで誰方か待っていらっしゃいます。おやすみになっていらっしゃいますと言っても、是非会わなければならないって――。」

私はゆめうつつに聴いていたが、もしやと思ってはっとした。すると、ふしぎに頭がいちどに冷たくなった。

「どんな人です。」

「眼の鋭い、いやな人です。とにかくおあいになったらどう。いらっしゃいますと私はそう申しておいたのですから。」

「じゃ階下へいま行きます。」

私は着物をきかえると、袂のところに泥がくっついたのが何時の間にか乾いたのであろう、ざらざらとこぼれた。

階下へ降りると、玄関の格子戸のそとに、日に焼けた髯の長い男が立っていた。見ると同時に、額からだらだらと流れた血を思い出した。ふらふらして宿へかえったとき、宿の時計が午前二時を指していたことと、宿のものが皆寝込んでひっそりしていたことを思い出した。

「あなたですか。××さんと言われるのは。」

いきなり田舎訛りのある言葉で言った。

「そうです。御用は。」

「私はこんなものです。」と一枚の名刺を出した。駒込署刑事何某とあった。

「すぐ同行してもらいたいのです。昨夜は遅くおかえりでしたろうな。」

私はすぐに、

「二時にかえったのです。みな分っています。いま着換えしますから。」と言った。

私は二階へあがると、泥のつかない着物を押入から取り出して着た。そして室の中を丁寧に見廻した。ガマ口の金を半分だけ机の曳出しに入れたが、こんどは辞書の中へ挿み込んだ。何故かこんなことをしなければならないような気がした。くしゃくしゃになった敷島の殻を反古籠に投げ込んで、ぬぎすてた着物も畳んだ。室が乱れていないのを見て、ほっと安心した。

室生犀星の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本