一
夕方になると、一人の童子が門の前の、表札の剥げ落ちた文字を読み上げていた。植込みを隔てて、そのくろぐろした小さい影のある姿が、まだ光を出さぬ電燈の下に、裾すぼがりの悄然とした陰影を曳いていた。
童子は、いつも紅い塗のある笛を手に携えていた。しかしそれを曾て吹いたことすらなかった。
植込みのつたの絡んだ古い格子戸の前へ出て、この家のあるじである笏梧朗は、そういう童子のたずねてくる夕刻時を待ち慕うていた。青鷺の立ち迷う沼沢の多かったむかしにくらべ、この城外には、甍を立てた建物が混み合っていた。
「きょうは大層おそかったではないか、どうしてからだを震わせているのか、犬にでも会ったのか。」
「いいえ、お父さん。」
童子は、頭をふって見せた。柔らかい唐黍のような紅毛が、微風に立ちそよいだ。
「いつもお父さんのおうちのそばへ来ると、妙にからだがふるえるのです。べつに何んでもない。」
「それならいいけれどね。また加減をわるくするといけないから。」
笏梧朗は父親らしい手つきで、童子の、絹のような頬に掌をあてた。
「お母様は?」
童子は、そういうと家の中をさし覗いた。ココア色をした小鳥が離亭の柱に、その朱塗の籠のなかで往き来し、かげは日影のひいたあたりには既う無かった。
「ほら、離亭で朱子を縫うている。見えるかな、鳥籠のある竹縁のそばにいるではないか。」
「ええ、呼ぼうか知ら。」
「それよりもそっと行って驚かしてみせたらどうだ。」
童子は、すばやく玄関から次ぎの部屋をぬけ、離亭への踏石へおり立とうとしたとき、一軸の仏画が床の間に掛けられてあるのを見戍った。
「どうしてああいうものを掛けておくの。あの絵は見たことがある……。」
「あれはね。」
笏は、悲しそうに童子と仏軸とを見較べ、躊躇ってやっと重い口をひらいた。
「あれは、おとうさんが妙に寂しくなると掛けてみたくなるものだ。お前があれを見ることが厭なら止めてもよいが……。」
「でも、へんですね。」
古い軸の上に、細い目をしたふっくりした顔があった。蓮華を台に、古い、さびしい仏は坐っていた。が、その感じは、月夜のように蒼茫とした明るみを持っていた。