故郷を辞す
本文約14,600字 ・ 読了時間 約30分
あらすじ(AIが作成しました)
田舎で暮らす「わたし」は、庭の赤蜻蛉や川の鮎を眺めながら静かな日々を送っている。帰郷して以来、旧友の昔語りに物悲しさを覚え、孤独や偏屈を自認するようになる。田舎の生活は空想力を低下させる一方で、身体的な安らぎを与える側面もあった。ついに東京へ戻る時が近づく中、母と炬燵を囲み花札に興じる夜、降り始めた初雪の音を聞きながら、静かに別れの時を迎える心情を描く。
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家のものが留守なんで一人で風呂の水汲をして、火を焚きつけいい塩梅にからだに温かさを感じた。そして座敷に坐り込んで熱い茶を一杯飲んだが、庭さきの空を染める赤蜻蛉の群をながめながら常にない静かさを感じた。空気がよいので日あたりでも埃が見えないくらゐである。となりの家の塀ごしに柘榴が色づいてゐる。まだ口を開けてゐない。この間まで花が着いてゐたのにと物珍らしげな眼をあげてゐると、灰ばんだいろをした小鳥が一羽、その茂りの枝を移りながら動いてゐる。わたしは茫然とそれをながめてゐるうちに、穏やかな日ざしがだんだんとなり家のひさしへ移つてゆくのに気づいた。
門前の川べりへ出て見ても、毎日眺めてゐる山山の景色にも痩せた皺や襞をもの侘びしく眺めた。怒つたあとのやうな疲れが山肌に見え、とげとげしさが沈んで見えた。川の瀬も澄んで鮎屋が昨日もつて来ての話では、もう下流でないとゐないと言ひ、このあたりにゐるのは若若しく寂びてゐないから味さは味いが、かぞへる程しかゐないと言つた。九月の終りころから鮎は寂びたが、十月になつてから一さうさびしく寂びてしまつた。この夏は門の前の瀬に網を打つ漁師を呼んで、毎日のやうに鮎を食膳に上したものであつた。春浅いころまだ一寸くらゐの鮎をながめてゐたわたしは夏深くなるごとにかれらの育つて行くのが眼に見えた。美しい柔らかい肌をしてゐたかれらが、もう卵を胎んで尾の方から黄ろくなりかけてゆくのや、荒い瀬なみを抜けきることのできなくなつてゐるのや、流れを下るだけで上ることのないのを、何かやはり人情の中のものにくらべながら思ひ出したのであつた。