鞄
本文約12,200字 ・ 読了時間 約25分
あらすじ(AIが作成しました)
二年半の服役を終えた打木田は、所持品の空のボストン・バッグを携えて出所する。再犯を隠し、社会復帰を果たそうとするなか、電車で出会った女に対し抱いた興味と切実な欲望を軸に、あてのない町歩きと女との再会への期待を描く。中身のないバッグに重みを求めて品物を詰め込み、女に名前や居所を尋ねるなど、孤独な男が社会とのつながりや生の充足感を切望する心理を静かに映し出していく。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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朝の九時に鐵のくぐりを出た打木田は、それでも、しばらく立つて誰か迎へに來てゐるだらうかと、あちこち見したが、やはりさとえは來てゐなかつた。外にも出る者がゐるらしく、差入屋の入口に五六人の肩をちぢめた連中がゐたが、迎へのない打木田を見ると眼に同情のしなを見せて見送り、打木田はその前でちよつと頭を下げて行つた。五六人の連中は打木田のしたより二倍くらゐのていねいさで、頭を下げて應へた。
打木田は利根川べりの郊外から、息もつかずに町の中にはいると、電車にも乘らずにまつすぐに、くるわ町の交叉點に出て行つた。そして角にある煙草屋の店を見すましたが、先刻と同じ足どりで店先に駈け込むやうにして行つて、勢ひ好くタバコをくれと言つた。奧から中年の女が出て來たが、打木田はピースとバットを續けさまにいひつけ、お釣錢をうけるとき打木田の眼はワナワナふるへた。蒸し上るやうな女のふとつた白さが、眼にはいるよりも内股にうづいて來て、全身に例のワナワナがわいて來た。打木田はあわてた乾いた口もとで、聲もかすれて早口でいつた。
「燐寸、燐寸をください。」
「はい、燐寸、」
もう女の顏を見ることのできない、あわてふためいたところに、かれはゐた。打木田はピースに火をつけると燐寸を返さうとし、女は燐寸はお持ちなさいといつてくれた。ふしぎさうに燐寸をうけとるとかれは燐寸といふものが、どこでも、ただでくれるものだといふことが判らずにゐたから、お禮をいつた。二年半のあひだに四囘見た女の顏は、二年半のあひだかれに毎晩その顏をすぐわきにならべて寢てゐてくれた。打木田はしんみなやうなものを感じて、お禮をいひたかつたが、そんなばかなこともいへずにまた交叉點に出て、店屋の通りを東の方に歩いて行つた。まるで顏に手をかけておもちやにしてゐたやうな女が、そんなことはちつとも知らないでゐることが、人間には神通もなにもないやうで、人間なんてだめなやうなものに思はれた。