TRENDIA CLASSIC

忘春詩集

室生犀星

1 / 15

[#ページの左右中央]

佐藤惣之助兄におくる

[#改ページ]

忘春詩集序言

この詩集がはしなく忘春と名づけられたのも、今から考へると何となく相応しいやうな気がする。さまざまな大切なものを忘れて来たやうで、さて気がついて振り返つて見ても何ひとつ残つてゐないやうな私には、この忘春といふ美しい織物の裏地をさし覗くやうな文字のひびきからして、しつくりと私の心からゑぐり出したもののやうに思へる。私ばかりではなく誰人でも忘春の心があわただしく胸を衝くことがあるかも知れない。それだのに私は私らしく人一倍にそれを言はうとする迅りかけた心をもつものである。つまり私は私らしくをりをり自分の暮しのなかに何かを拾ひ蒐めようとして、扨て何物をも拾ひ得なかつたかも知れない。あるひは私の拾ひ得たものは瓦と石の砕片で、さうして他に貴重なものがこぼれてゐたと言つた方が適当かも知れないのである。

も一つ私はこの詩集のなかで、自分の子供を亡くしたといふよく有り触れた境致に、さういふ人生の真実に何時の間にかに触れたといふことに、私は始めて驚いたと言つてよいのである。人生といふものは辛酸の続きであるといふより、私にとつて人生は結極美事な驚きをその悲しみより先き立つて囁いたからである。人一倍さういふことに打たれる私には、一切の哀愁よりも先づ私といふ微些な一個の人間が始めてこの世のものに、さうして人生といふものを解りかけたからである。平淡で、その上すこしの波動のない私の暮しの中では、何ものに増して私を驚かせたことは実際である。

室生犀星の他の作品