車中も亦愉し
本文約1,900字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
汽車や電車、バスなどの公共交通機関は、現代の世相を映す風俗画である。通勤時間を空想と観察の場とする筆者は、乗り合わせた団体の滑稽な宴会や、経国の本義を語る田舎の老紳士、奇妙な本を読む青年、早朝に帰路につく酒場の女といった車中の情景を綴る。それらを通じ、些細な観察から得られる旅路や日常の興味深い側面を書き留める随筆である。
💰 この本を応援する(投げ銭)
汽車、電車、バスなどの公衆の交通機関は現代世相の風俗画とも言ふべきで、かういふ観点から例へば通勤の往復も極めて興味ありかつ有益な時間になるわけである。元来僕のなかには空想と観察が一緒にすんでゐるらしく、時に応じて新聞雑誌を読み、考へごとをし、連想し、退屈し、眠り、そしてまた乗り合はした人に興味や関心をひかれるといふ、この点極めて尋常の乗客なのであるが、それでも乗り物の中での記憶がいつのまにか頭のどこかに夥しくたまつてはゐる。モデルノロジイといふのがあるが、ああいふ事もやつてみれば面白いに相違ない。
春から初夏へかけて伊豆方面にでも出かけるらしい団体と同じ列車にしばしば乗り合はせる。団体と一と口に言つても種々雑多な類ひがある。いつか、×××印蚊取り線香小売販売人御招待といふ団体のなかにまぎれこんだことがあつた。まだ春浅いことだつたので成程宣伝の世の中、商人の手廻しのいいのには感心もし、×××印蚊取り線香と染め抜いた青や赤の小旗をかざした人々の右往左往し、南京豆、のしいかに思ひ/\に小宴を張るさまが如何にも可笑しさにたへなかつたが、そのうち世話役らしい人が僕の所へやつて来てこちらにはお酒はまわりましたか知らといつて二合瓶をあてがはれた事がある。その中に割り込んだ僕を同行と間違へたものらしい。勿論僕は遠慮なく頂戴した。この蚊とり線香を用ひてしかもなほ蚊に悩まされた記憶もあれば、蚊も又安心して推賞するに足るこれは蚊取線香だつたのである。それにしても蚊取り線香販売人といふ見立てにはわれながら恐縮して、どうかと思つたことだつた。と言つて僕は菊石ではない。春先き蚊取線香の余徳で微醺を呼んだ僕はそれ以来寒中に近江の商人をなつかしむのである。