映画界・小言幸兵衛
本文約6,600字 ・ 読了時間 約14分
あらすじ(AIが作成しました)
映画監督である著者が、自身の映画作りに対する姿勢や、日本映画界が抱える現状と課題を綴る随筆。制作の裏側にある興行と芸術の葛藤、二本立興行がもたらす質の低下、そして若手監督への偏見や映画批評のあり方について論じる。子供と共に鑑賞できる健全な作品作りを目指すべきだと説き、映画人として、また一人の観客として、映像作品が社会の中で担う役割と理想の姿を率直な言葉で語る。
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阿呆が監督しても客は来る
蟻を見るたびに感心する。よくも精を出して働くもので、一匹ぐらい石ころの蔭で昼寝をしていてもよさそうなものだが、とんと見当らない。そこにゆくと、人間は有難い。程々に生きることも勝手だ。どう生れ変っても蟻だけには生れたくないものだ。
私が一年に一つしか映画を作らないのは、必ずしも怠けているからではないのだが、今年は映画界も総蹶起というわけで、私も『彼岸花』に続いて、年内にもう一本撮ることになった。
『彼岸花』は興行成績もよかったようだが、あれだけのスターを揃えれば、大当りするのが当り前なので、会社ももとよりそこに安全性を考えていたわけだ。阿呆が監督しても、客が来るだろうと思う。ただ、つまらない自慢だが、阿呆が監督したのでは、あれだけのスターは集まらなかっただろうということは云えよう。大した役ではないが出てみようという好意を持って貰えたから、ともかくスターの名が並んだので、このスター・ヴァリュウで客が入らなかったら、会社はびっくりするどころではなく、私はたちまち契約を解除されてしまうところだ。
映画の出来がよくて、その上興行成績がよければ、それに越したことはないが、若い頃には、興行性と芸術性とは相反するものだと、私は考えていた。儲からなくてもいいから、自分のやりたいものをやるんだという意気込みで、大いに仕事をしたものだ。だから、批評家には評判がよかったが、会社は有難くなかったろう。しかし、小津の映画は余り金をかけていないから、客が入らなくても仕様がない、と考えて好きなようにやらしてくれた。もし、会社で皮算用している作品が、はずれたならばそのままでは済まなかったろうと思う。
やはり若い時は、意あっても力が足りない。通俗性だ、芸術性だと難しいことを振りまわしても、後になって振返ってみると、思っているだけの表現ができていない。気分だけは大変な芸術と取組んでいるつもりでも、ろくに腕も立たず、障子一枚、棧一つ削れない奴が、仏像を作ろうとしてもうまくゆくはずがない、職人の風上にも置けない奴だということになる。