耳
本文約7,500字 ・ 読了時間 約15分
あらすじ(AIが作成しました)
田舎に住む久助君は、ある晩、友人たちの間で「耳をさわる」という行為を許されていた花市君の拒絶を目の当たりにする。その毅然とした態度に衝撃を受けた久助君は、次第に自らのあり方を見つめ直すようになる。ある朝、登校時に親戚の自転車に乗せてもらうことを断り、一里の道のりを自力で走り抜くという決意を固める。周囲の何気ない日常の中で、少年の心が静かな変容を遂げていく様子を描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
ある晩、久助君は風呂にはいっていた。晩といっても、田舎で風呂にはいるのは暗くなってからである。風呂といっても、田舎の風呂は、五右エ門風呂という、ひとりしかはいれない桶のような風呂である。
久助君は、つまらなそうに、じゃばじゃばと音をさせてはいっていた。風呂の中でハモニカをふくことと、歌をうたうことは、このあいだお父さんから、かたく禁じられてしまったのである。「風呂の中でハモニカをふいたり、鼻歌をうたったりするようなもんは、きっとうちの屋台骨をまげるようになる」とお父さんはいった。久助君は、加平君ところの牛小屋が、いぜん、だんだん傾いてきて、壁がかえるの腹のように外側にふくれ、とうとうある日つぶれてしまったのをよく知っていたので、自分の家があんなふうになるのはかなわないと思って、ハモニカも歌もやめてしまったのであった。
ハモニカと歌をとりあげられてしまうと、風呂は、久助君にとって、おもしろくないことであった。何もすることがなかったのだ。
そこで久助君は、何か一つ考えてみることにした。
しかし考えというものは、さあ考えようといったって、たやすくうかんでくるものではない。いったいなんのことを考えたらいいだろう。
――さて何を考えよう、と久助君が、自分の耳をひっぱったときに、じつにすばらしい考えのいとぐちがみつかった。
耳のことである。花市君の耳のことである。
花市君は、ふつうの人より大きい耳をもっている。その耳は肉があつくて、柔らかくて、赤い色をしている。その二つの耳が、花市君の、まんまるな、お月さんのような顔の両側に扇子をひらいたようなぐあいについている。花市君はいつも、二つの耳のあいだで、眼をほそくしてにこにこしているのである。
久助君たちは、よくこの花市君の耳をさわるのである。むろん久助君ばかりではない。村の子ども――といって、花市君より上級の者ばかりだが――は全部、そういうことをするのである。ほんとうは久助君は、自分からすすんでそんなことをしたおぼえはない。ただ、ひとがするので、まねてするばかりである。