TRENDIA CLASSIC
Sの背中
梅崎春生
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一
『猿沢佐介の背中には、きっと一つの痣がある。しかもそいつのまんなかに、縮れて黒い毛が三つ、生えているのに相違ない』
いつからか、蟹江四郎は、そう思うようになっていました。思うというより、信じるといった方がいいかも知れません。思ったり信じたりするだけではなく、時には口に出して言ってみたりさえするのです。もちろん人前でではなく、こっそりとです。七五調の新体詩みたいな調子のいい文句ですから、つい口の端に出て来やすいのでした。
ひとりで部屋でお茶を飲んでいる時とか、道を歩いている時などに、だから彼はふと呟いています。ちょいと呪文のような具合なのです。
『猿沢佐介の背中には、節穴みたいな痣がある。そしてそいつのまんなかに……』
それを呟くとき、蟹江四郎の顔はいつもやや歪み、表情もいくらか苦渋の色をたたえてくるようです。ふだんから突き出たような眼玉が、そんな時はなおのこと、ぎょろりと飛び出してくるように見えました。
しかしこの七五調仕立ての文句は、その発想において、間違っていました。それは蟹江自身もよく知っていました。本来ならば、これは次のように言うべきなのです。
『三本の黒い縮れ毛の生えた、直径一糎ほどの痣が、この世のどこかに存在する。誰かの背中にきっと貼りついているのだ。その誰かというのは、あの猿沢佐介に違いない』
つまり、猿沢の背中に痣があるかどうか、ということが問題ではなく、痣があるのは猿沢の背中かどうか、ということなのです。言葉にすれば似たようなものですが、意味から言えばすこし違っているでしょう。
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