Sの背中
本文約22,300字 ・ 読了時間 約45分
あらすじ(AIが作成しました)
畠の中に社宅跡が並ぶ部落に住む蟹江四郎は、隣人の猿沢佐介の背中に黒い毛の生えた痣があると思い込み、その存在を執拗に気に掛けている。二人は奇妙な縁で知り合い、同じ飲み屋に通い詰める仲となるが、蟹江は猿沢の私生活や奇行をめぐる噂話に振り回され、やがて金銭が絡む歪な将棋の勝負に没頭していく。他者の身体的特徴への強迫的な空想と、その真相を確かめられない現実との間で蟹江の心理は揺れ動き、関係性は奇妙に停滞し続ける。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
『猿沢佐介の背中には、きっと一つの痣がある。しかもそいつのまんなかに、縮れて黒い毛が三つ、生えているのに相違ない』
いつからか、蟹江四郎は、そう思うようになっていました。思うというより、信じるといった方がいいかも知れません。思ったり信じたりするだけではなく、時には口に出して言ってみたりさえするのです。もちろん人前でではなく、こっそりとです。七五調の新体詩みたいな調子のいい文句ですから、つい口の端に出て来やすいのでした。
ひとりで部屋でお茶を飲んでいる時とか、道を歩いている時などに、だから彼はふと呟いています。ちょいと呪文のような具合なのです。
『猿沢佐介の背中には、節穴みたいな痣がある。そしてそいつのまんなかに……』
それを呟くとき、蟹江四郎の顔はいつもやや歪み、表情もいくらか苦渋の色をたたえてくるようです。ふだんから突き出たような眼玉が、そんな時はなおのこと、ぎょろりと飛び出してくるように見えました。
しかしこの七五調仕立ての文句は、その発想において、間違っていました。それは蟹江自身もよく知っていました。本来ならば、これは次のように言うべきなのです。
『三本の黒い縮れ毛の生えた、直径一糎ほどの痣が、この世のどこかに存在する。誰かの背中にきっと貼りついているのだ。その誰かというのは、あの猿沢佐介に違いない』
つまり、猿沢の背中に痣があるかどうか、ということが問題ではなく、痣があるのは猿沢の背中かどうか、ということなのです。言葉にすれば似たようなものですが、意味から言えばすこし違っているでしょう。