TRENDIA CLASSIC

Sの背中

梅崎春生

1 / 28

『猿沢佐介の背中には、きっと一つの痣がある。しかもそいつのまんなかに、縮れて黒い毛が三つ、生えているのに相違ない』

いつからか、蟹江四郎は、そう思うようになっていました。思うというより、信じるといった方がいいかも知れません。思ったり信じたりするだけではなく、時には口に出して言ってみたりさえするのです。もちろん人前でではなく、こっそりとです。七五調の新体詩みたいな調子のいい文句ですから、つい口の端に出て来やすいのでした。

ひとりで部屋でお茶を飲んでいる時とか、道を歩いている時などに、だから彼はふと呟いています。ちょいと呪文のような具合なのです。

『猿沢佐介の背中には、節穴みたいな痣がある。そしてそいつのまんなかに……』

それを呟くとき、蟹江四郎の顔はいつもやや歪み、表情もいくらか苦渋の色をたたえてくるようです。ふだんから突き出たような眼玉が、そんな時はなおのこと、ぎょろりと飛び出してくるように見えました。

しかしこの七五調仕立ての文句は、その発想において、間違っていました。それは蟹江自身もよく知っていました。本来ならば、これは次のように言うべきなのです。

『三本の黒い縮れ毛の生えた、直径一糎ほどの痣が、この世のどこかに存在する。誰かの背中にきっと貼りついているのだ。その誰かというのは、あの猿沢佐介に違いない』

つまり、猿沢の背中に痣があるかどうか、ということが問題ではなく、痣があるのは猿沢の背中かどうか、ということなのです。言葉にすれば似たようなものですが、意味から言えばすこし違っているでしょう。

梅崎春生の他の作品